うから、何時《いつ》でも棟梁さん宜しいと云われ、随分売れた人でした。それが吉川では番頭が代って亥太郎の顔を知らなかったのが間違いの出来る原《もと》で、
 亥「番頭さん相変らず銭がないから今度払いを取った時だぜ」
 番「誠に困りやす、代を戴かなくちゃア困りますなア」
 亥「困るって左官の亥太郎だからいゝじゃアねえか」
 番「亥太郎さんと仰《おっし》ゃるか知れませんが銭がなくっては困ります」
 亥「左官の亥太郎だよ」
 番「誰様《どなたさま》かは存じませんが、飲んで仕舞ってから払いをしなければ食逃げだ」
 亥「ナニ食逃げとは何をぬかす」
 と云いながら職人で癇癖《かんぺき》に障ったから握り拳《こぶし》を以《もっ》て番頭を撲《なぐ》りましたが、右の腕に十人力、左の手に十二人力あります、何《ど》うして左の手に余計力があるかと云うに、これは左官のせいで、左官と云う者は刺取棒《さいとりぼう》で土を出すのを左の手の小手板で受けるのは何貫目《なんがんめ》あるか知れません、それゆえに亥太郎の左手が力が多いので、その大力無双《だいりきぶそう》の腕で撲られたから息の根が止るばかりです。
 亥「これ、能く己《おれ》の顔を見て覚えて置け、豊島町の亥太郎だぞ」
 と云う騒ぎに亭主が奥から駈出して来て、
 主人「申し棟梁さん、腹を立たないでおくんなさい、これは一昨日《おとゝい》来た番頭でお前さんの顔を知らないのですから」
 亥「己は弱い者いじめは嫌《きれ》えだが食逃げとはなんでえ」
 主「棟梁さん勘忍しておくんなさい」
 と頻《しき》りに詫をしている。只今なれば直《じ》きに棒を持って来てこれ/\と人を払って、詰らぬものを見ていて時間を費《ついや》すより早く往ったが好かろうと保護して下さるが、其の頃は巡査がありませんから追々人立がして往来が止るようになりました。文治は斯う云う事を見ると捨てゝ置かれん気性でございますから心配して、
 文「大分《だいぶ》人立がしているが何《なん》だえ」
 森「生酔《なまよい》が銭がねえと云うのを、番頭が困るって云ったら番頭を撲りやアがって」
 文「可愛そうに、商売の障りになるから其の者が銭がなければ払ってやって早く表へ引出してやれ」
 森「え、御免ねえ/\、おい兄い々々|爰《こゝ》でそんな事を云っちゃア商売の障りにならア表へ人が黒山のように立つから此方《こっち》へ来ね
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