飯「それじゃア己が相川に済まんから腹を切らんければならん」
孝「腹を切っても構いません」
飯「主人の言葉を背《そむ》くならば永《なが》の暇《いとま》を出すぞ」
孝「お暇に成っては何《なん》にもならん、そういう訳でございますならば、ちょっと一言《ひとこと》ぐらい斯《こ》う云う訳だと私《わたくし》にお話し下さっても宜《よろ》しいのに」
飯「それは己が悪かった、此の通り板の間へ手を突いて謝《あやま》るから行ってやれ」
孝「そう仰しゃるなら仕方がありませんから取極《とりき》めだけして置いて、身体は十年が間《あいだ》参りますまい」
飯「そんな事が出来るものか、翌日《あす》結納を取交《とりか》わす積りだ、向うでも来月初旬に婚礼を致す積りだ」
 との事を聞いて孝助の考えまするに、己が養子にゆけば、お國と源次郎と両人で殿様を殺すに違いないから、今夜にも両人を槍《やり》で突殺《つきころ》し、其の場で己も腹|掻切《かきゝ》って死のうか、そうすれば是が御主人様の顔の見納め、と思えば顔色《がんしょく》も青くなり、主人の顔を見て涙を流せば、
飯「解らん奴だな、相川へ参るのはそんなに厭《いや》か、相川はつい鼻の先の水道端だから毎日でも往来《ゆきき》の出来る所、何も気遣《きづか》う事はない、手前は気強いようでもよく泣くなア、男子《おとこ》たるべきものがそんな意気地《いくじ》がない魂ではいかんぞ」
孝「殿様|私《わたくし》は御当家様へ三月五日に御奉公に参りましたが、外《ほか》に兄弟も親もない奴だと仰しゃって目を掛けて下さる、其の御恩の程は私は死んでも忘れは致しませんが、殿様はお酒を召上ると正体なく御寝《げし》なさる、又召上らなければ御寝なられません故、少し上《あが》って下さい、余りよく御寝なると、どんな英雄でも、随分悪者の為に如何《いか》なる目に逢うかも知れません、殿様決して御油断はなりません、私はそれが心配でなりません、それから藤田様から参りましたお薬は、どうか隔日《いちにちおき》に召上って下さい」
飯「なんだナ、遠国《えんごく》へでも行《ゆ》くような事を云って、そんな事は云わんでもいゝわ」

        八

 萩原の家《うち》で女の声がするから、伴藏が覗《のぞ》いて恟《びっく》りし、ぞっと足元から総毛立《そうけだ》ちまして、物をも云わず勇齋の所へ駆込《かけこ》もうとしましたが、怖いから先
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