を」
孝「え、なんでも宜しゅうございます、此方《こちら》の事です、殿様|私《わたくし》は三月二十一日に御当家へ御奉公に参りまして、新参者の私を、人が羨《うらや》ましがる程お目を掛けてくださり、御恩義の程は死んでも忘れはいたしません、死ねば幽霊になって殿様のお身体に附きまとい、凶事のない様に守りまするが、全体貴方は御酒を召上れば前後も知らずお寝《やす》みになる、又召上がらねば少しもお寝みになる事が出来ません、御酒も随分気を散じますから少々は召上がっても宜しゅうございますが、多分に召上ってお酔いなすっては、仮令《たとい》どんなに御剣術が御名人でも、悪者がどんなことを致しますかも知れません、私はそれが案じられてなりません」
飯「さような事は云わんでも宜しい、あちらへ参れ」
孝「へえ」
と立上がり、廊下を二足《ふたあし》三足《みあし》行《ゆ》きにかゝりましたが、是《こ》れがもう主人の顔の見納めかと思えば、足も先に進まず、又振返って主人の顔を見てポロリと涙を流し、悄々《しお/\》として行《ゆ》きますから、振返るを見て飯島もハテナと思い、暫《しば》し腕|拱《こまぬ》き、小首かたげて考えて居りました。孝助は玄関に参り、欄間《らんま》に懸《かゝ》ってある槍をはずし、手に取って鞘《さや》を外《はず》して検《あらた》めるに、真赤《まっか》に錆《さ》びて居りましたゆえ、庭へ下《お》り、砥石《といし》を持来《もちきた》り、槍の身をゴシ/\研《と》ぎはじめていると、
飯「孝助々々」
孝「へい/\」
飯「何《なん》だ、何をする、どう致すのだ」
孝「これは槍でございます」
飯「槍を研いで何《ど》う致すのだえ」
孝「余《あんま》り真赤《まっか》に錆《さび》ておりますから、なんぼ泰平の御代《みよ》とは申しながら、狼藉《ろうぜき》ものでも入《い》りますと、其の時のお役に立たないと思い、身体が閑でございますから研ぎ始めたのでございます」
飯「錆槍《さびやり》で人が突けぬような事では役にたゝんぞ、仮令《たとえ》向うに一|寸幅《すんはゞ》の鉄板《てついた》があろうとも、此方《こちら》の腕さえ確《たしか》ならプツリッと突き抜ける訳のものだ、錆ていようが丸刃《まるは》であろうが、さような事に頓着《とんじゃく》はいらぬから研ぐには及ばん、又憎い奴を突殺《つきころ》す時は錆槍で突いた方が、先の奴が痛いから此方が却
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