》むなんて、余程自分の生活に、自分の心持ちに不自然な醜さがあるのだと、此《こ》の朝つく/″\と身に沁《し》みて考へられた。
 おせいの親父《おやぢ》と義兄《にい》さんが見えて、おせいを引張つて帰つて行つたのは、たしか五月の三十日だと思ふ。その時も、大変なんでしたよ。僕にはもと/\掠奪《りやくだつ》の心はないんだ。人情としての不憫《ふびん》さはあるつもりなんだが、おせいを何《ど》うして見たところで僕の誇りとなる筈《はず》はない。それくらゐのことは、自分も最早《もう》四十近い年だ、いくらか世の中の塩をなめて来てゐるつもりだから、それ程間違つた考へは持つてをらないつもりである。
 本能といふものの前には、ひとたまりもないのだと云はれれば、それまでのことなんだが、何うにかなりはしないものだらうか。本能が人間を間違はすものなら、また人間を救つてくれる筈だと思ふ。椎の若葉に光りあれ、我が心にも光りあらしめよ。
 十二日に鎌倉へ行つて来ました。十三日は父の命日、来月の十三日は三周忌、鎌倉行きのことが新聞に出たのは十三日なのです。十二日の晩たしか九時いくらの汽車で鎌倉駅を発《た》つて来たらしいのですが
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