駅前から電車で大仏、観音、それだけで三時間位はかゝるだらうと思ふから、江の島へ廻つては余程急いでも夕方になるでせうと思ひますから、さう云ふ順序になさつては如何《いかゞ》ですかと、簡単な地図を書き、将軍道の並木の前の所で別れ、それから、おせいの家で震災後駅前に始めた飲食店をそれとなく見たいと思ひ、路地を曲つたところ、悪いことは出来ないもので、建長寺にをつた時分、酒を続けてゐてくれた内田屋の御大《おんたい》に会ひ、では、おせいのお袋さんだけに会ひたいと思つたんだ。つまりおせいは、そのバラック飲食店で姉といつしよに、ゴロツキのやうな客相手に酌婦《しやくふ》めいたことをするのは厭《いや》だと云つて逃げて来たやうな訳なんだ。それにまた、実は、鎌倉行きは単純な鎌倉行きではなかつたんです。辻堂の中村さんをお訪ねして、本の方のことで御相談を得たいと思ひ、鎌倉駅で下りると同時に辻堂行きの切符を買つた訳なんである。久し振りで、本当に震災後初めて十ヶ月振りで鎌倉の駅を見、あの松、あの将軍道の桜並木を見て、実に愉快でもあり、やはり都会の空気とは違つた新しさ、海からの風、六年間|居馴染《ゐなじ》んだ空気、風情《ふぜい》の懐《なつか》しさに、酒を飲まなくつたつて酔つたやうな気分にならずにゐられなかつた。何ともしやうがないことぢやないか。僕は喧嘩《けんくわ》するつもりはないんだし、また喧嘩を吹かけられる程の弱味のない人間なんだから喧嘩がはじまる訳はないんだ。ところでね、やはりそのおせいのお袋さんや姉さんのおとめさんのやつてるバラック飲食店へ寄ることになつたんだ。仲々よく出来てるバラックだ。僕の思つてゐたより立派なバラック飲食店で、硝子《ガラス》の戸を開けてはひると、カフェーらしく椅子《いす》、テーブルの土間もあり、座敷には茶湯台《ちやぶだい》も備はつてをり、居間といふか茶の間といふか、そちらには長火鉢《ながひばち》も置いてあり、浅見と朱で書いた葛籠《つゞら》も備はつてゐるやうな訳で、いろ/\よく出来てゐると思つて感心したくらゐなんだから、乱暴なぞ働かうなんかの心持ちはないんだ。お袋さんと話してをるうちに、おせいの家の本家の若旦那《わかだんな》の喜平さんが見え、さうしてゐるうちに、向うを代表して中へ這入つてくれてゐる小池さん――「蠢《うごめ》くもの」――の中に出て来てゐる人事相談のお方なんだ。僕に
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