クラ/\と今にも打倒れそうな疲れた頼りない気持であった。歯のすり減った下駄のようになった日和《ひより》を履いて、手の脂《やに》でべと/\に汚れた扇を持って、彼はひょろ[#「ひょろ」に傍点]高い屈った身体してテク/\と歩いて行った。それは細いだら/\の坂路の両側とも、石やコンクリートの塀を廻したお邸宅《やしき》ばかし並んでいるような閑静な通りであった。無論その辺には彼に恰好な七円止まりというような貸家のあろう筈はないのだが、彼はそこを抜けて電車通りに出て電車通りの向うの谷のようになった低地の所謂細民窟附近を捜して見ようと思って、通りかゝったのであった。両側の塀の中からは蝉やあぶら[#「あぶら」に傍点]やみんみん[#「みんみん」に傍点]やおうし[#「おうし」に傍点]の声が、これでもまだ太陽の照りつけ方が足りないとでも云うように、ギン/\溢れていた。そしてどこの門の中も、人気が無いかのようにひっそり閑《かん》としていて、敷きつめた小砂利の上に、太陽がチカ/\光っていた。で「斯んな広いお邸宅の静かな室で、午睡でもしていたいものだ」と彼はだら/\流れ出る胸の汗を拭き/\、斯んなことを思いながら、息を切らして歩いて行った。左り側に彼が曾て雑誌の訪問記者として二三度お邪魔したことのある、実業家で、金持で、代議士の邸宅があった。「やはり先生避暑にでも行ってるのだろうが、何と云っても彼奴等《きゃつら》はいゝ生活をしているな」彼は羨ましいような、また憎くもあるような、結局芸術とか思想とか云ってても自分の生活なんて実に惨めで下らんもんだというような気がされて、彼は歩みを緩めて、コンクリートの塀の上にガラスの破片を突立てた広い門の中をジロ/\横目に見遣りながら、歩いて行ったのであった。が丁度その時、坂の向うから、大きな体格の白服の巡査が、剣をガチン/\鳴らしながらのそり/\やって来た。顔も体格に相応して大きな角張った顔で、鬚が頬骨の外へ出てる程長く跳ねて、頬鬚の無い鍾馗《しょうき》そのまゝの厳めしい顔をしていた。処が彼が瞥《ちら》と何気なしに其巡査の顔を見ると、巡査が真直ぐに彼の顔に鋭い視線を向けて、厭に横柄なのそり/\した歩き振りでやって来てるので、彼は何ということなしに身内の汗の冷めたくなるのを感じた。彼は別に法律に触れるようなことをしてる身に憶えないが、さりとて問い詰められては間誤《まご》つくようなこともあるだろうし、またどんな嫌疑で――彼の見すぼらしい服装だけでもそれに値いしないとは云えないのだから――「オイオイ! 貴様は! 厭に邸内をジロ/\覗き歩いて居るが、一体貴様は何者か? 職業は? 住所は?」
 で彼は何気ない風を装うつもりで、扇をパチ/\云わせ、息の詰まる思いしながら、細い通りの真中を大手を振ってやって来る見あげるような大男の側を、急ぎ脚に行過ぎようとした。
「オイオイ!」
 ……果して来た! 彼の耳がガアンと鳴った。
「オイオイ! ……」
 警官は斯う繰返してものの一分もじっと彼の顔を視つめていたが、
「……忘れたか! 僕だよ! ……忘れたかね? ウヽ? ……」
 警官は斯う云って、初めて相好を崩し始めた。
「あ君か! 僕はまた何物かと思って吃驚しちゃったよ。それにしてもよく僕だってことがわかったね」
 彼は相手の顔を見あげるようにして、ほっとした気持になって云った。
「そりゃ君、警察眼じゃないか。警察眼の威力というのは、そりゃ君恐ろしいものさ」
 警官は斯う得意そうに笑って云った。
 午下りの暑い盛りなので、そこらには人通りは稀であった。二人はそこの電柱の下につくばって話した。
 警官――横井と彼とは十年程前神田の受験準備の学校で知り合ったのであった。横井はその時分医学専門の入学準備をしていたのだが、その時分下宿へ怪しげな女なぞ引張り込んだりしていたが、それから間もなく警察へ入ったのらしかった。
 横井はやはり警官振った口調で、彼の現在の職業とか収入とかいろ/\なことを訊いた。
「君はやはり巡査かい?」
 彼はそうした自分のことを細かく訊かれるのを避けるつもりで、先刻から気にしていたことを口に出した。
「馬鹿云え……」横井は斯う云って、つくばったまゝ腰へ手を廻して剣の柄を引寄せて見せ、
「見給え、巡査のとは違うじゃないか。帽子の徽章にしたって僕等のは金モールになってるからね……ハヽ、この剣を見よ! と云いたい処さ」横井は斯う云って、再び得意そうに広い肩をゆすぶって笑った。
「そうか、警部か。それはえらいね。僕はまたね、巡査としては少し変なようでもあるし、何かと思ったよ」
「白服だからね、一寸わからないさ」
 二人は斯んなことを話し合いながら、しばらく肩を並べてぶら/\歩いた。で彼は「此際いい味方が出来たものだ」斯う心の中に思いながら、彼が目下家を追い立てられているということ、今晩中に引越さないと三百が乱暴なことをするだろうが、どうかならぬものだろうかと云うようなことを、相手の同情をひくような調子で話した。
「さあ……」と横井は小首を傾《かし》げて急に真面目な調子になり「併し、そりゃ君、つまらんじゃないか。そんな処に長居するもんじゃないよ。気持を悪くするばかしで、結局君の不利益じゃないか。そりゃ先方《むこう》の云う通り、今日中に引払ったらいゝだろうね」
「出来れば無論今日中に越すつもりだがね、何しろこれから家を捜さにゃならんのだからね」
「併しそんな処に長居するもんじゃないね。結局君の不利益だよ」
 彼の期待は外れて、横井は警官の説諭めいた調子で斯う繰り返した。
「そうかなあ……」
「そりゃそうとも。……では大抵署に居るからね、遊びに来給え」
「そうか。ではいずれ引越したらお知らせする」
 斯う云って、彼は張合い抜けのした気持で警官と別れて、それから細民窟附近を二三時間も歩き廻った。そしてよう/\恰好な家を見つけて、僅かばかしの手附金を置いて、晩に引越して来るということにして帰って来た。がやっぱし細君からの為替が来てなかった。昨日の朝出した電報の返事すら来てなかった。

     三

 その翌日の午後、彼は思案に余って、横井を署へ訪ねて行った。明け放した受附の室とは別室になった奥から、横井は大きな体躯《からだ》をのそり/\運んで来て「やあ君か、まああがれ」斯う云って、彼を二階の広い風通しの好い室へ案内した。広間の周囲には材料室とか監督官室とかいう札をかけた幾つかの小間があった。梯子段をのぼった処に白服の巡査が一人テーブルに坐っていた。二人は中央の大テーブルに向い合って椅子に腰かけた。
「どうかね、引越しが出来たかね?」
「出来ない。家はよう/\見附かったが、今日は越せそうもない。金の都合が出来んもんだから」
「そいつあ不可《いか》んよ君。……」
 横井は彼の訪ねて来た腹の底を視透かしたかのように、むずかしい顔をして、その角張った広い顔から外へと跳ねた長い鬚をぐい/\と引張って、飛び出た大きな眼を彼の額に据えた。彼は話題を他へ持って行くほかなかった。
「でも近頃は節季近くと違って、幾らか閑散なんだろうね。それに一体にこの区内では余り大した事件が無いようだが、そうでもないかね?」
「いや、いつだって同じことさ。ちょい/\これでいろんな事件があるんだよ」
「でも一体に大事件の無い処だろう?」
「がその代り、注意人物が沢山居る。第一君なんか初めとしてね……」
「馬鹿云っちゃ困るよ。僕なんかそりゃ健全なもんさ。唯貧乏してるというだけだよ。尤も君なんかの所謂警察眼なるものから見たら、何でもそう見えるんか知らんがね、これでも君、幾らかでも国家社会の為めに貢献したいと思って、貧乏してやってるんだからね。単に食う食わぬの問題だったら、田舎へ帰って百姓するよ」
 彼は斯う額をあげて、調子を強めて云った。
「相変らず大きなことばかし云ってるな。併し貧乏は昔から君の附物じゃなかった?」
「……そうだ」
 二人は一時間余りも斯うした取止めのない雑談をしていた。その間に横井は、彼が十年来続けてるという彼独特の静座法の実験をして見せたりした。横井は椅子に腰かけたまゝでその姿勢を執って、眼をつぶると、半分《はんぷん》とも経たないうちに彼の上半身が奇怪な形に動き出し、額にはどろ/\汗が流れ出す。横井はそれを「精神統一」と呼んだ。
「……でな、斯う云っちゃ失敬だがね、僕の観察した所ではだ、君の生活状態または精神状態――それはどっちにしても同じようなもんだがね、余程不統一を来して居るようだがね、それは君、統一せんと不可んぞ……。精神統一を練習し給え。練習が少し積んで来ると、それはいろ/\な利益があるがね、先ず僕達の職掌から云うと、非常に看破力が出て来る。……此奴《こやつ》は口では斯んなことを云ってるが腹の中は斯うだな、ということが、この精神統一の状態で観ると、直ぐ看破出来るんだからね、そりゃ恐ろしいもんだよ。で、僕もこれまでいろ/\な犯人を掴まえたがね、それが大抵昼間だったよ。……此奴怪しいな、斯う思った刹那にひとりでに精神統一に入るんだね。そこで、……オイコラオイコラで引張って来るんだがね、それがもうほとんど百発百中だった」
「……フム、そうかな。でそんな場合、直ぐ往来で縄をかけるという訳かね?」
「……なあんで、縄なぞかけやせんさ。そりゃもう鉄の鎖で縛ったよりも確かなもんじゃ。……貴様は遁《のが》れることならんぞ! 貴様は俺について来るんだぞ! と云うことをちゃんと暗示して了うんだからね、つまり相手の精神に縄を打ってあるんだからな、これ程確かなことはない」
「フム、そんなものかねえ」
 彼は感心したように首肯《うなず》いて警部の話を聞いていたが、だん/\と、この男がやはり、自分のことをもその鉄の鎖で縛った気で居るのではないか知らという気がされて来て、彼は言いようのない厭悪と不安な気持になって起ちあがろうとしたが、また腰をおろして、
「それでね、実は、君に一寸相談を願いたいと思って来たんだがね、どんなもんだろう、どうしても今夜の七時限り引払わないと畳建具を引揚げて家を釘附けにするというんだがね、何とか二三日延期させる方法が無いもんだろうか。僕一人だとまた何でもないんだが、二人の子供をつれて居るんでね……」
 しばらくもじ/\した後で、彼は斯う口を切った。
「そりゃ君不可んよ。都合して越して了い給え。結局君の不利益じゃないか。先方だって、まさか、そんな乱暴なことしやしないだろうがね、それは元々の契約というものは、君が万一家賃を払えない場合には造作を取上げるとか家を釘附けにするとかいうことになって居るんではないのだからね、相当の手続を要することなんで、そんな無法なことは出来る訳のものではないがね、併し君、君もそんなことをしとってもつまらんじゃないか。君達はどう考えて居るか知らんがね、今日の時勢というものは、それは恐ろしいことになってるんだからね。いずれの方面で立つとしても、ある点だけは真面目にやっとらんと、一寸のことで飛んでもないことになるぜ。僕も職掌柄いろ/\な実例も見て来てるがね、君もうっかりしとると、そんなことでは君、生存が出来なくなるぜ!」
 警部の鈍栗眼《どんぐりまなこ》が、喰入るように彼の額に正面《まとも》に向けられた。彼はたじろいだ。
「……いや君、併し、僕だって君、それほどの大変なことになってるんでもないよ。何しろ運わるく妻が郷里に病人が出来て帰って居る、……そんなこんなでね、余り閉口してるもんだからね。……」
「……そう、それが、君の方では、それ程大したことではないと思ってるか知らんがね、何にしてもそれは無理をしても先方の要求通り越しちまうんだな。これは僕が友人として忠告するんだがね、そんな処に長居をするもんじゃないよ。それも君が今度が初めてだというからまだ好いんだがね、それが幾度もそんなことが重なると、終いにはひどい目に会わにゃならんぜ。つまり一種の詐欺だからね。家賃を支払う意志なくして他人の家屋に入ったものと認められても仕方が無
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