位の女がガチャ/\三味線を鳴らし唄をうたいながら入って来た。一人の酔払いが金を遣った。手を振り腰を振りして、尖がった狐のような顔を白く塗り立てたその踊り子は、時々変な斜視のような眼附きを見せて、扉と飲台《テーブル》との狭い間で踊った。
幾本目かの銚子を空にして、尚|頻《しき》りに盃を動かしていた彼は、時々無感興な眼附きを、踊り子の方へと向けていたが、「そうだ! 俺には全く、悉くが無感興、無感激の状態なんだな……」斯う自分に呟いた。
幾年か前、彼がまだ独りでいて、斯うした場所を飲み廻りほつき歩いていた時分の生活とても、それは決して今の生活と較べて自由とか幸福とか云う程のものではなかったけれど、併しその時分口にしていた悲痛とか悲惨とか云う言葉――それ等は要するに感興というゴム鞠《まり》のような弾力から弾き出された言葉だったのだ。併し今日ではそのゴム鞠に穴があいて、凹めば凹んだなりの、頼りも張合いもない状態になっている。好感興悪感興――これはおかしな言葉に違いないが、併し人間は好い感興に活きることが出来ないとすれば、悪い感興にでも活きなければならぬ、追求しなければならぬ。そうにでもしなければこの人生という処は実に堪え難い処だ! 併し食わなければならぬという事が、人間から好い感興性を奪い去ると同時に悪い感興性の弾力をも奪い取って了うのだ。そして穴のあいたゴム鞠にして了うのだ――
「そうだ、感興性を失った芸術家の生活なんて、それは百姓よりも車夫よりもまたもっと悪い人間の生活よりも、悪い生活だ。……それは実に悪生活だ!」
ポカンと眼を開けて無意味に踊り子の厭らしい踊りに見恍《みと》れていた彼は、彼等の出て行く後姿を見遣りながら、斯うまた自分に呟いたのだ。そして、「自分の子供等も結局あの踊り子のような運命になるのではないか知らん?」と思うと、彼の頭にも、そうした幻影が悲しいものに描かれて、彼は小さな二女ひとり伴れて帰ったきり音沙汰の無い彼の妻を、憎い女だと思わずにいられなかった。
「併し、要するに、皆な自分の腑甲斐ない処から来たのだ。彼女《あれ》は女だ。そしてまた、自分が嬶《かかあ》や子供の為めに自分を殺す気になれないと同じように、彼女だってまた亭主や子供の為めに乾干《ひぼし》になると云うことは出来ないのだ」彼はまた斯うも思い返した。……
「お父さんもう行きましょうよ」
「もう飽きた?」
「飽きちゃった……」
幾度か子供等に催促されて、彼はよう/\腰をおこして、好い加減に酔って、バーを出て電車に乗った。
「何処へ行くの?」
「僕の知ってる下宿へ」
「下宿? そう……」
子供等は不安そうに、電車の中で幾度か訊いた。
渋谷の終点で電車を下りて、例の砂利を敷いた坂路を、三人はKの下宿へと歩いて行った。そこの主人も主婦《かみ》さんも彼の顔は知っていた。
彼は帳場に上り込んで「実は妻が田舎に病人が出来て帰ってるもんだから、二三日置いて貰いたい」と頼んだ。が、主人は、彼等の様子の尋常で無さそうなのを看て取って、暑中休暇で室も明いてるだろうのに、空間が無いと云ってきっぱりと断った。併しもう時間は十時を過ぎていた。で彼は今夜一晩だけでもと云って頼んでいると、それを先刻から傍に坐って聴いていた彼の長女が、急に顔へ手を当ててシク/\泣き出し始めた。それには年老《としと》った主人夫婦も当惑して「それでは今晩一晩だけだったら都合しましょう」と云うことにきまったが、併し彼の長女は泣きやまない。
「ね、いゝでしょう? それでは今晩だけこゝに居りますからね。明日別の処へ行きますからね、いゝでしょう? 泣くんじゃありません……」
併し彼女は、ます/\しゃくりあげた。
「それではどうしても出たいの? 他所《よそ》へ行くの? もう遅いんですよ……」
斯う云うと、長女は初めて納得したようにうなずいた。
で三人はまた、彼等の住んでいた街の方へと引返すべく、十一時近くなって、電車に乗ったのであった。その辺の附近の安宿に行くほか、何処と云って指して行く知合の家もないのであった。子供等は腰掛へ坐るなり互いの肩を凭《もた》せ合って、疲れた鼾《いびき》を掻き始めた。
湿っぽい夜更けの風の気持好く吹いて来る暗い濠端を、客の少い電車が、はやい速力で駛《はし》った。生存が出来なくなるぞ! 斯う云ったKの顔、警部の顔――併し実際それがそれ程大したことなんだろうか。
「……が、子供等までも自分の巻添えにするということは?」
そうだ! それは確かに怖ろしいことに違いない!
が今は唯、彼の頭も身体も、彼の子供と同じように、休息を欲した。
[#地から1字上げ](大正七年三月「早稲田文学」)
底本:「哀しき父・椎の若葉」講談社文芸文庫、講談社
1994(平成6)年12月
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