、決して不道徳なものではない。好い意味の貧乏というものは、却て他人に謙遜な好い感じを与えるものだが、併し小田のはあれは全く無茶というものだ。貧乏以上の状態だ。憎むべき生活だ。あの博大なドストエフスキーでさえ、貧乏ということはいゝことだが、貧乏以上の生活というものは呪うべきものだと云っている。それは神の偉大を以てしても救うことが出来ないから……」斯うまた、彼等のうちの一人の、露西亜文学通が云った。
 また、つい半月程前のことであった。彼等の一人なるYから、亡父の四十九日というので、彼の処へも香奠《こうでん》返しのお茶を小包で送って来た。彼には無論一円という香奠を贈る程の力は無かったが、それもKが出して置いて呉れたのであった。Yの父が死んだ時、友人同士が各自に一円ずつの香奠を送るというのも面倒だから、連名にして送ろうではないかという相談になって(彼はその席には居合せなかったが)その時Kが「小田も入れといてやろうじゃないか、斯ういう場合なんだからね、小田も可愛相だよ」斯う云って、彼の名をも書き加えて、Kが彼の分をも負担したのであった。
 それから四十九日が済んだという翌くる日の夕方前、――丁度また例の三百が来ていて、それがまだ二三度目かだったので、例の廻り冗《くど》い不得要領な空恍《そらとぼ》けた調子で、並べ立てていた処へ、丁度その小包が着いたのであった。「いや私も近頃は少し脳の加減を悪るくして居りましてな」とか、「えゝその、居は心を移すとか云いますがな、それは本当のことですな。何でも斯ういう際は多少の不便を忍んでもすぱりと越して了うんですな。第一処が変れば周囲の空気からして変るというもんで、自然人間の思想も健全になるというような訳で……」斯う云ったようなことを一時間余りもそれからそれと並べ立てられて、彼はすっかり参っていた処なので、もう解ったから早く帰って呉れと云わぬばかしの顔していた処なので、そこへ丁度好くそのお茶の小包が着いたので、それが気になって堪らぬと云った風をしては、座側《わき》に置いた小包に横目をやっていた。また実際一円の香奠を友人に出して貰わねばならぬ様な身分の彼としては、一斤というお茶は貴重なものに違いなかった。で三百の帰った後で、彼は早速小包の横を切るのももどかしい思いで、包装を剥ぎ、そしてそろ/\と紙箱の蓋を開けたのだ。……新しいブリキ鑵の快よい光! 山本山と銘打った紅いレッテルの美《うる》わしさ! 彼はその刹那に、非常な珍宝にでも接した時のように、軽い眩暈《めまい》すら感じたのであった。
 彼は手を附けたらば、手の汗でその快よい光りが曇り、すぐにも錆が附きやしないかと恐るるかのように、そうっと注意深く鑵を引出して、見惚《みと》れたように眺め廻した。……と彼は、ハッとした態《さま》で、あぶなく鑵を取落しそうにした。そして忽《たちま》ち今までの嬉しげだった顔が、急に悄《しょ》げ垂れた、苦《にが》いような悲しげな顔になって、絶望的な太息を漏らしたのであった。
 それは、その如何にも新らしい快よい光輝を放っている山本山正味百二十匁入りのブリキの鑵に、レッテルの貼られた後ろの方に、大きな凹みが二箇所というもの、出来ていたのであった。何物かへ強く打つけたか、何物かで強く打ったかとしか思われない、ひどい凹みであった。やがて、当然、彼の頭の中に、これを送った処のYという人間が浮んで来た。あの明確な頭脳の、旺盛な精力の、如何なる運命をも肯定して驀地《まっしぐ》らに未来の目標に向って突進しようという勇敢な人道主義者――、常に異常な注意力と打算力とを以て自己の周囲を視廻し、そして自己に不利益と見えたものは天上の星と雖《いえど》も除き去らずには措《お》かぬという強猛な感情家のY、――併し彼は如何に猜疑心を逞しゅうして考えて見ても、まさかYが故意に、彼を辱しめる為めに送って寄越したのだとは、彼にも考えることが出来なかった。……それは余りに理由《いわれ》ないことであった。
「何しろ身分が身分なんだから、それは大したものに違いなかろうからな、一々開けて検《しら》べて見るなんて出来た訳のものではなかろう。つまり偶然に、斯うした傷物が俺に当ったという訳だ……」
 それが当然の考え方に違いなかった。併し彼は何となく自分の身が恥じられ、また悲しく思われた。偶然とは云え、斯うした物に紛れ当るということは、余程呪われた者の運命に違いないという気が強くされて――
 彼は、子供等が庭へ出て居り、また丁度細君も使いに行ってて留守だったのを幸い、台所へ行って擂木《すりこぎ》で出来るだけその凹みを直し、妻に見つかって詰問されるのを避ける準備をして置かねばならなかった。
 それから二三日経って、彼はKに会った。Kは彼の顔を見るなり、鋭い眼に皮肉な微笑を浮べて、

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