子をつれて
葛西善蔵

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)お菜《さい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一層|滅入《めい》った

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)町内のつきあい[#「つきあい」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)変にしょぼ/\した眼附していた。
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

     一

 掃除をしたり、お菜《さい》を煮たり、糠味噌を出したりして、子供等に晩飯を済まさせ、彼はようやく西日の引いた縁側近くへお膳を据えて、淋しい気持で晩酌の盃を嘗《な》めていた。すると御免とも云わずに表の格子戸をそうっと開けて、例の立退き請求の三百が、玄関の開いてた障子の間から、ぬうっと顔を突出した。
「まあお入りなさい」彼は少し酒の気の廻っていた処なので、坐ったなり元気好く声をかけた。
「否《いや》もうこゝで結構です。一寸そこまで散歩に来たものですからな。……それで何ですかな、家が定《き》まりましたでしょうな? もう定まったでしょうな?」
「……さあ、実は何です、それについて少しお話したいこともあるもんですから、一寸まあおあがり下さい」
 彼は起って行って、頼むように云った。
「別にお話を聴く必要も無いが……」と三百はプンとした顔して呟きながら、渋々に入って来た。四十二三の色白の小肥りの男で、紳士らしい服装している。併《しか》し斯うした商売の人間に特有――かのような、陰険な、他人の顔を正面《まとも》に視れないような変にしょぼ/\した眼附していた。
「……で甚だ恐縮な訳ですが、妻《さい》も留守のことで、それも三四日中には屹度帰ることになって居るのですから、どうかこの十五日まで御猶予願いたいものですが、……」
「出来ませんな、断じて出来るこっちゃありません!」
 斯う呶鳴《どな》るように云った三百の、例のしょぼ/\した眼は、急に紅い焔でも発しやしないかと思われた程であった。で彼はあわてて、
「そうですか。わかりました。好《よ》ござんす、それでは十日には屹度越すことにしますから」と謝まるように云った。
「私もそりゃ、最初から貴方を車夫馬丁同様の人物と考えたんだと、そりゃどんな強い手段も用いたのです。がまさかそうとは考えなかったもんだから、相当の人格を有して居られる方だろうと信じて、これだけ緩慢に貴方の云いなりになって延期もして来たような訳ですからな、この上は一歩も仮借する段ではありません。如何なる処分を受けても苦しくないと云う貴方の証書通り、私の方では直ぐにも実行しますから」
 何一つ道具らしい道具の無い殺風景な室の中をじろ/\気味悪るく視廻しながら、三百は斯う呶鳴り続けた。彼は、「まあ/\、それでは十日の晩には屹度引払うことにしますから」と、相手の呶鳴るのを抑える為め手を振って繰返すほかなかった。
「……実に変な奴だねえ、そうじゃ無い?」
 よう/\三百の帰った後で、彼は傍で聴いていた長男と顔を見交わして苦笑しながら云った。
「……そう、変な奴」
 子供も同じように悲しそうな苦笑を浮べて云った。……

 狭い庭の隣りが墓地になっていた。そこの今にも倒れそうになっている古板塀に縄を張って、朝顔がからましてあった。それがまた非常な勢いで蔓が延びて、先きを摘んでも摘んでもわきから/\と太いのが出て来た。そしてまたその葉が馬鹿に大きくて、毎日見て毎日大きくなっている。その癖もう八月に入ってるというのに、一向花が咲かなかった。
 いよ/\敷金切れ、滞納四ヵ月という処から家主との関係が断絶して、三百がやって来るようになってからも、もう一月《ひとつき》程も経っていた。彼はこの種を蒔いたり植え替えたり縄を張ったり油粕《あぶらかす》までやって世話した甲斐もなく、一向に時が来ても葉や蔓ばかし馬鹿延びに延びて花の咲かない朝顔を余程皮肉な馬鹿者のようにも、またこれほど手入れしたその花の一つも見れずに追い立てられて行く自分の方が一層の惨《みじ》めな痴呆者《たわけもの》であるような気もされた。そして最初に訪ねて来た時分の三百の煮え切らない、変に廻り冗《くど》く持ちかけて来る話を、幾らか馬鹿にした気持で、塀いっぱいに匐《は》いのぼった朝顔を見い/\聴いていたのであった。所がそのうち、二度三度と来るうちに、三百の口調態度がすっかり変って来ていた。そして彼は三百の云うなりになって、八月十日限りといういろ/\な条件附きの証書をも書かされたのであった。そして無理算段をしては、細君を遠い郷里の実家《さと》へ金策に発《た》たしてやったのであった。……
「なんだってあの人はあゝ怒ったの?」
「やっぱし僕達に引越せって訳さ。なあにね、明日《
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