、またわが子の我まゝな手紙を読むことに、慰藉《ゐしや》を感じてゐた。
彼等の行つてゐた温泉は、汽車から下りて、谷あひの川に沿うて五六里も馬車に揺られて山にはひるのであつた。温泉の近くには、彼女の信仰してゐる古い山寺があつて、そこの蓴菜《じゆんさい》の生える池の渚《みぎは》に端銭《はせん》をうかべて、その沈み具合によつて今年の作柄や運勢が占はれると云ふことが、その地方では一般に信じられてゐた。彼女もまた何十年となく、毎年今頃に参詣《さんけい》することにしてゐて、その占ひを信じてゐるのであつた。
母の手紙では今年の占ひが思はしくないので気がかりだと云ふこと、互ひに気をつけるやうにせねばならぬと云ふこと、孫のたいへん元気であること、そして都合がついたら孫の洋服をひとつ送るやうにと云ふのであつた。孫は洋服を着たいと云つてきかない、そしてお父さんはいやだ、何にも送つてくれないからいやだと云ふのであつた。彼女はそんなことは云ふものでないと孫を叱《しか》つてゐる。そして靴と靴下だけは買つてやつたが、洋服は都合して送るやうにと云ふのであつた。
それは朝からのひどい雨の日であつた。彼は寝衣《ねまき》の乾《かわ》かしやうのないのに困つて、ぼんやりと窓外《まどそと》を眺《なが》めて居た。梧桐《あをぎり》の毛虫はもうよほど大きくなつてゐるのだが、こんな日にはどこかに隠れてゐて姿を見せない、彼は早くこの不吉な家を出て海岸へでも行つて静養しようと、金の工面《くめん》を考へてゐたのであつた。
疲れた彼の胸には、母の手紙は重い響であつた。彼は兎《と》に角《かく》小箪笥《こだんす》を売つて、洋服を送つてやることにした。そして、
「……どうか、そんなことを云はさないやうにして下さい。私はあれをたいへんえらい人間にしようと思つて居るのです。私はいろ/\だめなのです……。どうか卑しいことは云はさないやうにして下さい。卑しい心を起させないやうにして下さい。身体さへ丈夫であれば、今のうちは何もいらないのです……」
彼は子供がいつの間にそんなことを云ふまでになつたかを信じられないやうな、また怖《おそ》ろしいやうな気持で母への返事を書いた。そして彼がこの正月に苦しい間から書物など売払つて送つてやつた、毛糸の足袋《たび》や、マントや、玩具《おもちや》の自動車や、絵本や、霜やけの薬などを子供はどんなに悦《よろこ》んで「これもお父さんから、これもお父さんから」と云つて近所の人達に並べて見せたと云ふことや、彼の手紙をお父さんからの手紙と云つて持ち歩くと云ふことなどを思ひ合して、別れてわづか一年足らずに過ぎない子供の現在を想像することの困難を感ずるのであつた。
霧のやうな小雨が都会をかなしく降りこめて居る。彼は夜遅くなつて、疲れて、草の衾《しとね》にも安息をおもふ旅人のやる瀬ない気持になつて、電車を下りて暗い場末の下宿へ帰るのであつた。
彼は海岸行きの金をつくる為に、図書館通ひを始めてゐる。……
彼の胸にも霧のやうな冷たい悲哀が満ち溢《あふ》れてゐる。執着と云ふことの際限もないと云ふこと、世の中にはいかに気に入らぬことの多いかと云ふこと、暗い宿命の影のやうに何処《どこ》まで避けてもつき纏《まと》うて来る生活と云ふこと、また大きな黴菌《ばいきん》のやうに彼の心に喰ひ入らうとし、もう喰ひ入つてゐる子供と云ふこと、さう云ふことどもが、流れる霧のやうに、冷たい悲哀を彼の疲れた胸に吹きこむのであつた。彼は幾度《いくたび》か子供の許《もと》に帰らうと、心が動いた。彼は最も高い貴族の心を待つて、最も元始の生活を送つて、真実なる子供の友となり、兄弟となり、教育者となりたいとも思ふのであつた。
けれども偉大なる子は、決して直接の父を要しないであらう。彼は寧《むし》ろどこまでも自分の道を求めて、追うて、やがて斃《たふ》るゝべきである。そしてまた彼の子供もやがては彼の年代に達するであらう、さうして彼の死から沢山の真実を学び得るであらう――
六
苦しい図書館通ひが四五日も続いた、その朝であつた。彼はいつものやうに、暁方《あけがた》過《す》ぎからうと/\と重苦しい眠りにはひつて、十時少し前に気色のわるい寝床を出たのであつた。
日が、燻《くす》べられたやうな色の雨戸の隙間《すきま》から流れ入つて、室の中はむし/\してゐた。彼は雨戸を開けて、ビシヨ/\の寝衣を窓庇《まどびさし》の釘《くぎ》に下げて、それから洗面器を出さうとして押入れの唐紙《からかみ》を開けた。見なれた洗面器の中のうがひのコップや、石鹸箱《シャボンばこ》や、歯磨の袋が目に入つた。
と、彼は軽く咳《せ》き入つた、フラ/\となつた、しまつた! 斯《か》う思つた時には、もうそれが彼の咽喉《のど》まで押し寄せてゐた――。
熱は三十七八度の辺を昇降してゐる。堪へ難いことではない。彼の精神は却《かへ》つて安静を感じてゐる。
「自分もこれでライフの洗礼も済んだ、これからはすこしおとなになるだらう……」
孤独な彼は、気まゝに寝たり起きたりしてゐる。そしていつか、育ちのわるい梧桐の葉も延び切つて、黒い毛虫もみえなくなつてゐる。彼の使つた氷嚢《ひようなう》はカラ/\になって壁にかゝつてゐる。窓際の小机の上には、数疋《すうひき》の金魚がガラスの鉢《はち》にしな/\泳いでゐる。
彼は静かに詩作を続けようとしてゐる。
[#地から2字上げ](大正元年八月)
底本:「現代日本文學大系 49 葛西善藏 嘉村磯多 相馬泰三 川崎長太郎 宮路嘉六 木山捷平 集」筑摩書房
1973(昭和48)年2月5日初版第1刷発行
※底本は旧仮名新字で、カタカナで表記した名詞の拗促音のみ小書きしている。ルビ中の拗促音も、これにならって処理した。
入力:林田清明
校正:松永正敏
2000年9月21日公開
2006年3月18日修正
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