それが偶《たまた》ま訪《たづ》ねて来たいたづらな酒飲みの友達が、彼等の知らぬ間に亀の子を庭の草なかに放してなくなしてしまつた。彼は云ひやうのない憂鬱《いううつ》な溜息を感じた。「はア、カメない、カメノコない……」子供も幾日もそれを忘れなかつた。それからして彼等の日課も自然と廃せられることになり、間もなく、彼等の哀しき離散の日が来てゐたのであつた。――
三
彼は気の進まない自分を強《し》ひて、午後の散歩を続けてゐる。そしていつか、彼は彼の散歩する範囲内では、どこのランプ屋では金魚を置いてる、置いてないかが大概わかるやうになつてゐた。彼は都会から、生活から、朋友《ほういう》から、あらゆる色彩、あらゆる音楽、その種のすべてから執拗《しつあう》に自己を封じて、ぢつと自分の小さな世界に黙想してるやうな冷たい暗い詩人なのであつた。それが、金魚を見ることは、彼の小さな世界へ焼鏝《やきごて》をさし入れるものであらねばならない。彼は金魚を見ることを恐れた。そして彼はなるべく金魚の見えない通りを/\と避《よ》けて歩くのであつたが、うつかりして、立止つて、ガラスの箱なんかにしな/\と泳いでゐるのに見入つてゐることがあつた。そして気がついて、日のカン/\照つた往来を、涙を呑《の》んで歩いてゐるのであつた。けれども、彼もだん/\とそれに慣れては行つた。が、彼は今年になつてはじめて、どこかの場末の町の木陰《こかげ》に荷を下し休んでゐた金魚売を見た時の、その最初の感傷を忘れることが出来ない。……
四
いつか、梅雨前《つゆまへ》のじめ/\した、そして窒息させるやうに気紛《きまぐ》れに照りつけるやうな、日が来てゐた。
彼は此頃《このごろ》午後からきまつたやうに出る不快な熱の為めに、終日閉ぢこもつて、堪へ難い気分の腐触《ふしよく》と不安とになやまされて居る。寝たり起きたりして、喘《あへ》ぐやうな一日々々を送つてゐるのであつた。
陰気な、昼も夜も笑声ひとつ聞えないやうな家である。が、湿つぽい匂《にほ》ひの泌《し》みこんだ同じやうに汚ならしい六つ七つの室《へや》は、みんなふさがつてゐた。おとなしい貧乏な学生達と、彼の隣室には、若い夫婦者とむかひ合つた室には無職の予備士官がはひつてゐた。そしていつも執拗に子供のことや、暗い瞑想《めいさう》に耽《ふけ》つてぐづ/\と日を送つてゐる彼には、最初この家の陰気で静かなのが却《かへ》つて気安く感じられたのであつたが、それもだん/\と暗い、なやましい圧迫に変つてゐるのであつた。
予備士官は三十二三の、北国から出て来たばかりの人であつた。終日まつたく日のさゝない暗い室にとぢこもつてゐて、何をしてるのとも想像がつかなかつた。大きな不格好《ぶかつかう》な髪の薄い頭をして、訛音《なまり》のひどい言葉でブツ/\と女中に何か云つてることもあつた。時々汚ない服装《なり》の、ひとのおかみさんとも見える若い女が訪ねて来ることがあつたが、それが近所の安淫売《やすいんばい》だつたと云ふことが、後になつて無口の女中から漏《も》らされてゐた。
それがつい……まだ幾日も経《た》つてゐないのであつた。ある朝女中が声をひそめて「腸がねぢれたんださうですよ……」と軍人の三四日床に就《つ》き切りであることを話してゐた。それから一両日も経つた夕方、吊台《つりだい》が玄関前につけられて、そして病院にかつぎこまれて、手術をして、丁度八日目に死んだのである。腸の閉鎖と、悪性の梅毒に脊髄《せきずゐ》をもをかされてゐたのであつた。
また隣室の若い細君は、力無く見ひらいた眼の美しい、透き通るやうな青白い顔をして、彼がこの家へ来てから幾《ほと》んど起きてゐた日がないやうであつた。細君孝行な若い勤め人の夫は、朝早く出て晩遅く帰るのであつたが、朝晩に何かといたはつてゐるのが手に取るやうに聞こえるのであつた。細君の軽い咳音《せきおと》もまじつて、コソ/\と一晩中語りあかしてゐるやうなこともあつた。
彼は此頃の自分の健康と思ひ合はして、払ひ退《の》けやうのない不吉な、不安なかんがへになやまされてゐる。病人の絶えない家のやうにも思はれるのであつた。裏は低い崖《がけ》になつて、その上が墓地の藪《やぶ》になつてゐるが、この家の地所もやはり寺の所有なのであつた。ワクの朽《くさ》つた赤土の崖下の蓋《ふた》のない掘井戸から、ガタ/\とポンプで汲《く》み揚げられるやうになつてゐて、その上が寺の湯殿になつてゐた。若い女の笑ひ声なども漏れてゐることがあつた。そして崖上の暗い藪におつかぶされてゐるこの家では、もう、いやに目まぐるしい手足を動かして襲つて来る斑《まだ》らの黒い大きな藪蚊が、朝夕にふえて行くのであつた。
彼は飲みつけない強い酒を呷《あふ》つて、
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