やをれ金眸|確《たしか》に聞け。われは爾《なんじ》が毒牙《どくが》にかかり、非業にも最期をとげたる、月丸が遺児《わすれがたみ》、黄金丸といふ犬なり。彼時《かのとき》われ母の胎内にありしが、その後《のち》養親《やしないおや》文角ぬしに、委敷《くわし》き事は聞きて知りつ。爾がためには父のみか、母も病《やみ》て歿《みまか》りたれば、取不直《とりもなおさず》両親《ふたおや》の讐《あだ》、年頃|積《つも》る意恨の牙先、今こそ思ひ知らすべし」ト。名乗りかくれば金眸は、恐ろしき眼《まなこ》を見張り、「爾は昨日黒衣がために、射殺されたる野良犬ならずや。さては妄執《もうしゅう》晴れやらで、わが酔臥《えいふ》せし隙《ひま》に著入《つけい》り、祟《たたり》をなさんず心なるか。阿那《あな》嗚呼《おこ》の白物《しれもの》よ」ト。いはせも果てず冷笑《あざわら》ひ、「愚《おろか》や金眸。爾も黒衣に欺かれしよな。他《かれ》が如き山猿に、射殺さるべき黄金丸ならんや。爾が股肱《ここう》と頼みつる、聴水もさきに殺しつ。その黒衣といふ山猿さへ、われはや咬ひ殺して此《ここ》にあり」ト、携へ来りし黒衣が首級《くび》を、金眸が前へ投げ遣《や》れば。金眸は大《おおい》に怒り、「さては黒衣が虚誕《いつわり》なりしか。さばれ何ほどの事かあらん」ト、いひつつ、鷲郎を払ひのけ、黄金丸に掴《つか》みかかるを、引《ひっ》ぱづして肩を噛《か》めば。金眸も透《とお》さず黄金丸が、太股《ふともも》を噛まんとす。噛ましはせじと横間《よこあい》より、鷲郎は躍《おど》り掛《かかっ》て、金眸が頬《ほお》を噛めば。その隙に黄金丸は跳起きて、金眸が脊《せ》に閃《ひら》りと跨《またが》り、耳を噛んで左右に振る。金眸は痛さに身を悶《もが》きつつ、鷲郎が横腹を引※[#「爪+國」、112−7]《ひきつか》めば、「呀嗟《あなや》」と叫んで身を翻へし、少し退《しさ》つて洞口の方《かた》へ、行くを続いて追《おっ》かくれば。猛然として文角が、立閉《たちふさ》がりつつ角を振りたて、寄らば突かんと身構《みがまえ》たり。「さては加勢の者ありや。這《しゃ》ものものし金眸が、死物狂ひの本事《てなみ》を見せん」ト、いよいよ猛り狂ふほどに。その※[#「口+皐」、第4水準2−4−33]《ほ》ゆる声百雷の、一時に落ち来《きた》るが如く、山谷《さんこく》ために震動して、物凄きこといはん方なし。
 去るほどに三匹の獣は、互ひに尽す秘術|剽挑《はやわざ》、右に衝《つ》き左に躍り、縦横|無礙《むげ》に暴《あ》れまはりて、半時《はんとき》ばかりも闘《たたか》ひしが。金眸は先刻《さき》より飲みし酒に、四足の働き心にまかせず。対手《あいて》は名に負ふ黄金丸、鷲郎も尋常《なみなみ》の犬ならねば、さしもの金眸も敵しがたくや、少しひるんで見えける処を、得たりと著入《つけい》る黄金丸、金眸が咽喉《のんど》をねらひ、頤《あご》も透れと噬《か》みつけ、鷲郎もすかさず後より、金眸が睾丸《ふぐり》をば、力をこめて噬みたるにぞ。灸所《きゅうしょ》の痛手に金眸は、一声|※[#「口+翁」、112−16]《おう》と叫びつつ、敢《あえ》なく躯《むくろ》は倒れしが。これに心の張り弓も、一度に弛みて両犬は、左右に※[#「手へん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と俯伏《ひれふ》して、霎時《しばし》は起きも得ざりけり。
 文角は今まで洞口にありて、二匹の犬の働きを、眼《まなこ》も放たず見てありしが、この時|徐《おもむ》ろに進み入り、悶絶なせし二匹をば、さまざまに舐《ねぶ》り勦《いた》はり。漸く元に復《かえ》りしを見て、今宵の働きを言葉を極めて称賛《ほめたた》へつ。やがて金眸が首級《くび》を噬み切り、これを文角が角に着けて、そのまま山を走《は》せ下《くだ》り、荘官《しょうや》が家にと急ぎけり、かくて黄金丸は主家に帰り、件《くだん》の金眸が首級《くび》を奉れば。主人《あるじ》も大概《おおかた》は猜《すい》しやりて、喜ぶことななめならず、「さても出来《でか》したり黄金丸、また鷲郎も天晴《あっぱ》れなるぞ。その父の讐《あだ》を討《うち》しといはば、事|私《わたくし》の意恨にして、深く褒《ほ》むるに足らざれど。年頃|数多《あまた》の獣類《けもの》を虐《しいた》げ、あまつさへ人間を傷《きずつ》け、猛威日々に逞《たくま》しかりし、彼の金眸を討ち取りて、獣類《けもの》のために害を除き、人間のために憂《うれい》を払ひしは、その功けだし莫大《ばくだい》なり」トて、言葉の限り称賛《ほめたた》へつ、さて黄金丸には金の頸輪《くびわ》、鷲郎には銀の頸輪とらして、共に家の守衛《まもり》となせしが。二匹もその恩に感じて、忠勤怠らざりしとなん。めでたしめでたし。



底本:「日本児童文学名作集(上)」岩波文庫
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