ものわらい》を招かんより、無念を堪《こら》えて英気を養ひ以《もっ》て時節を待つには如《し》かじ」ト、事を分けたる文角が言葉に、実《げに》もと心に暁得《さと》りしものから。黄金丸はややありて、「かかる義理ある中なりとは、今日まで露|知《しら》ず、真《まこと》の父君《ちちぎみ》母君と思ひて、我儘《わがまま》気儘に過《すご》したる、無礼の罪は幾重《いくえ》にも、許したまへ」ト、数度《あまたたび》養育の恩を謝し。さて更《あらた》めていへるやう、「知らぬ疇昔《むかし》は是非もなけれど、かくわが親に仇敵あること、承はりて知る上は、黙《もだ》して過すは本意ならず、それにつき、爰《ここ》に一件《ひとつ》の願ひあり、聞入れてたびてんや」「願ひとは何事ぞ、聞し上にて許しもせん」「そは余の事にも候はず、某《それがし》に暇《いとま》を賜はれかし。某これより諸国を巡《め》ぐり、あまねく強き犬と噬《か》み合ふて、まづわが牙を鍛へ。傍《かたわ》ら仇敵の挙動《ふるまい》に心をつけ、機会《おり》もあらば名乗りかけて、父の讐《あだ》を復《かえ》してん。年頃受けし御恩をば、返しも敢《あ》へずこれよりまた、御暇《おんいとま》を取らんとは、義を弁へぬに似たれども、親のためなり許し給へ。もし某《それがし》幸ひにして、見事父の讐を復し、なほこの命|恙《つつが》なくば、その時こそは心のまま、御恩に報ゆることあるべし。まづそれまでは文角ぬし、霎時《しばし》の暇賜はりて……」ト、涙ながらに掻口説《かきくど》けば、文角は微笑《ほほえみ》て、「さもこそあらめ、よくぞいひし。其方がいはずば此方《こなた》より、強《しい》ても勧めんと思ひしなり。思《おもい》のままに武者修行して、天晴れ父の仇敵《かたき》を討ちね」ト、いふに黄金丸も勇み立ち。善は急げと支度《したく》して、「見事金眸が首取らでは、再び主家《しゅうか》には帰るまじ」ト、殊勝《けなげ》にも言葉を盟《ちか》ひ文角牡丹に別《わかれ》を告げ、行衛定めぬ草枕、われから野良犬《のらいぬ》の群《むれ》に入りぬ。

     第四回

 昨日《きのう》は富家《ふうか》の門を守りて、頸《くび》に真鍮の輪を掛《かけ》し身の、今日は喪家《そうか》の狗《く》となり果《はて》て、寝《いぬ》るに※[#「穴/果」、第3水準1−89−51]《とや》なく食するに肉なく、夜《よ》は辻堂の床下《ゆかした》に雨露を凌《しの》いで、無躾《ぶしつけ》なる土豚《もぐら》に驚かされ。昼は肴屋《さかなや》の店頭《みせさき》に魚骨《ぎょこつ》を求めて、情《なさけ》知らぬ人の杖《しもと》に追立《おいたて》られ。或時は村童《さとのこら》に曳《ひ》かれて、大路《おおじ》に他《あだ》し犬と争ひ、或時は撲犬師《いぬころし》に襲はれて、藪蔭《やぶかげ》に危き命を拾《ひら》ふ。さるほどに黄金丸は、主家を出でて幾日か、山に暮らし里に明かしけるに。或る日いと広やかなる原野《のはら》にさし掛りて、行けども行けども里へは出でず。日さへはや暮れなんとするに、宿るべき木陰だになければ、有繋《さすが》に心細きままに、ひたすら路を急げども。今日は朝より、一滴の水も飲まず、一塊の食も喰《くら》はねば、肚饑《ひだる》きこといはん方《かた》なく。苦しさに堪えかねて、暫時《しばし》路傍《みちのべ》に蹲《うずく》まるほどに、夕風|肌膚《はだえ》を侵し、地気《じき》骨に徹《とお》りて、心地《ここち》死ぬべう覚えしかば。黄金丸は心細さいやまして、「われ主家を出でしより、到る処の犬と争《あらそい》しが、かつて屑《もののかず》ともせざりしに。饑《うえ》てふ敵には勝ちがたく、かくてはこの原の露と消《きえ》て、鴉《からす》の餌《えじき》となりなんも知られず。……里まで出づれば食物《くいもの》もあらんに、それさへ四足疲れはてて、今は怎麼《いか》にともすべきやうなし。ああいひ甲斐なき事|哉《かな》」ト、途方に打《うち》くれゐたる折しも。何処《いずく》よりか来りけん、忽《たちま》ち一団の燐火《おにび》眼前《めのまえ》に現れて、高く揚《あが》り低く照らし、娑々《ふわふわ》と宙を飛び行くさま、われを招くに等しければ。黄金丸はやや暁得《さと》りて、「さてはわが亡親《なきおや》の魂魄《たま》、仮に此処《ここ》に現はれて、わが危急を救ひ給ふか。阿那《あな》感謝《かたじけな》し」ト伏し拝みつつ、その燐火の行くがまにまに、路四、五町も来ると覚しき頃、忽ち鉄砲の音耳近く聞えつ、燐火は消えて見えずなりぬ。こはそも怎麼なる処ぞと、四辺《あたり》を見廻はせば、此処は大《おおい》なる寺の門前なり。訝《いぶか》しと思ふものから、門の中《うち》に入りて見れば。こは大なる古刹《ふるでら》にして、今は住む人もなきにや、床《ゆか》は落ち柱斜めに、破れたる壁は蔓蘿《つた
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