ら宿を出た。赤根公園をしばらくぶらついて、それから、昼食をたべに街へ出た。私は、「いでゆ」という喫茶店にはいった。いまは立派な新進作家であるから、むかしのように、おどおどしなかった。じっさい、私にとって、十日ほどまえの東京の生活が、十年も二十年ものむかしのように思われていたのである。もはや私は、むかしのような子供でなかった。
「いでゆ」には、少女がふたりいた。ひとりは、宿屋の女中あがりらしく、大きい日本髪をゆい、赤くふくれた頬をしていた。私は、この女には、なんの興味も覚えなかったのであるが、いまひとりの少女、ああ、私はこの女をひとめ見るより身内のさっと凍るのを覚えた。いま思うと、なんの不思議もないことなのである。わかい頃には、誰しもいちどはこんな経験をするものなのだ。途上ですれちがったひとりの少女を見て、はっとして、なんだか他人でないような気がする。生れぬまえから、二人が結びつけられていて、何月何日、ここで逢う、とちゃんときまっていたのだと合点する。それは、青春の霊感と呼べるかも知れない。私は、その「いでゆ」のドアを押しあけて、うすぐらいカウンタア・ボックスのなかに、その少女のすがたを
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