。ええ、酔っぱらうの。死ぬほど酔っぱらうの。」
七
その夜、私は酔いしれた雪を、ほとんど抱きかかえるようにして、「いでゆ」を出た。雪は、私を宿まで送ってやると言い張るのである。いちめんに霜のおりたまちはしずかにしずまっていた。ひとめにかからず、かえって仕合せであると私は思った。そとへ出て冷たい風に当ると、私の酔はさっと醒めた。いや、風のせいだけではなかった。酔いしれた少女のからだのせいでもあった。しっとりと腕に重い、この魚のようにはつらつとした肉体の圧迫に、私は酔心地どころではなかった。幸福にもまちで誰にも見つからずに私たちは百花楼の門まで来た。大きい木の門は固くとざされていた。私は当惑した。
「おい、困った。門がしまっているんだ。」
「たたいたらいいんですよ。」
雪は、私の腕からするっとぬけて、ふらふら門へ近寄った。
「よせ、よせ。恥かしいよ。」
酔った女をつれて、夜おそく宿の門をたたいたとあれば、だいいち新進作家としての名誉はどうなる、死んでもそのようなさもしいことはできない。
「おい、君、もう帰れよ。君は、いでゆに寝泊りしているんだろう? こんどは僕が送って行ってやるよ。帰れよ。あした、また遊ぼう。」
「私、いや。」雪は、からだをはげしくゆすぶった。「いや、いや。」
「困るよ。じゃ、ふたりで野宿でもしようと言うのか。困るよ。僕は、宿のものへ恥かしいよ。」
「ああ、いいことがあるわ。おいでよ。」
雪は手をぴしゃと拍《う》って、そう言ってから、私の着物の袖《そで》をつかまえ、ひきずるようにしてぱたぱた歩きだした。
「なんだ、どうしたんだ。」
私もよろよろしながら、それでも雪について歩いた。
「いいことがあるの。でも恥かしいわ。あのね、百花楼ではね、ときどきお客が女のひとを連れこむのに、いやよ、笑っちゃ。」
「笑ってやしないよ。」
「そんな入口があるのよ。ええ、秘密よ。湯殿のとこからはいるの。それは、宿でも知らぬふりしているの。私、でも、話に聞いただけよ。ほんとのことは知らないわ。私、知らないことよ。あなた、私を、みだらな女だと思って。」
変に真面目な口調だった。
「それあ、判らん。」
私は意地わるくそう答えて、せせら笑った。
「ええ、みだらな女よ。みだらな女よ。」
雪はひくくそう呟《つぶや》いてから、ふと立ちどまって泣きだした。「どうせ、私は。でも、でも、たった一度、うん、たった二度よ。」
私はわれを忘れて雪を抱きしめた。
八
その謂《い》わば秘密の入口から、私はまだ泣きじゃくっている雪をかかえて、こっそりと私の部屋へはいった。
「静かにしようよ。他に聞えると大変だ。」
私は雪を坐らせて、なだめた。酔は、まったく醒めていた。
雪の泣きはらした眼には、電燈の明るい光がまぶしいらしく、顔からちょっと手を離したが、またすぐひたと両手で顔を被った。
寒さに赤くかじかんだ手の蔭から囁いた。
「私を軽蔑して?」
「いや!」私もむきになって答えた。「尊敬する。君は、神さまみたいだ。」
「うそよ。」
「ほんとうだ。僕は君みたいな女が欲しくて、小説を書いてるのだよ。僕は、ゆうべ初恋の記という小説を書いたけれど、これは、君をモデルにして書いたのだ。僕の理想の女性だ。読んでみないか。」
私は机のうえの原稿をとりあげて、どたりと雪の方へなげてやった。
雪は顔から手を離して、それを膝《ひざ》のうえにひろげた。ああ、そこには、私の名前でない男の名が、いや、ほんとうは私の名が、おおきく書かれていた。雪は、溜息《ためいき》ついて黙読をはじめた。私は、机のそばに坐って、ひっそりと机に頬杖つき、わが愛読者の愛すべき横顔を眺めた。ああ、おのれの作品が眼のまえで、むさぼるように読まれて居るのを眺めるこの刺すような歓喜!
雪は二三枚読むと、なんと思ったか、ぱっと原稿を膝から払いのけた。
「だめ。私読めないの。まだ酔っぱらっているのかしら。」
私はいたく失望した。たとえ、どのように酔っていたとて、一行読みだすと、たちまちに酔も醒めて、最後の一行まで、胸のはりさける思いでむさぼり読まれて然《しか》るべき傑作ではないか。ウイスキイ二三杯ぐらいの酔のために、膝からはらいのけるとは!
私は泣きたくなった。
「面白くないのか?」
「いいえ、かえって苦しいの。私あんなに美しくないわ。」
私は、ふたたび勇気を得た。そうだ、傑作にはそのような性格もあるのだ。よすぎて読めない。これは有り得る。そう安心すると、私は雪に対して、まえよりも強い、はばのひろい愛情を覚えたのだった。恋愛に憐憫の情がまじると、その感情はいっそうひろがり高まるものらしい。
「いや、そんなことはない。君の方が美しい。顔の美しさは心の美しさだ
前へ
次へ
全7ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
黒木 舜平 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング