その身体《からだ》の軽い事。まるで木の葉のようにヒラヒラと身を翻《ひるが》えす。赤いお盆がそれこそサーチライトのようにギラリギラリと輝きまわり屈折しまわる。おしまいに三尺ばかり飛上って座った翁の膝の下から起った音響の猛烈だったこと、板張が砕けたかと思った。
「この通り……ようと(充分の意)稽古しておきなさい」
と窘《たしな》めておいて、翁は筆者を振返った。
「さあ。今度はアンタじゃ。『敦盛』じゃったのう」
「ハイ」
と答えたまま筆者は後見座に釘付になって立上れなかった事を記憶している。あんまり固くなって足がシビレていたのだ。
◇
翁の皮肉も亦《また》、尋常でなかった。何やらの地謡の申合わせの時に、翁の居間の机の前に六七人並んで謡《うたい》合わせながら翁に聴いてもらっていた。
その中の某氏(名前は預かる)が謡の文句をつないでいなかったらしく、小さな声で地頭の謡にくっ付いて行った。
それを聞き咎《とが》めた翁はアシライの手をピタリと止めて、皆の顔を覗き込むように見まわした。
「誰かいな。誰か一人小さい声で謡い居るが、聞き苦しゅうてたまらん。誰かいな」
とギョロギョロ見まわした。ナアニ……翁はその小さい声の主をちゃんと知っていたのであるが、特に窘《たしな》めるために故意とこうした意地の悪い態度を執《と》ったものである。
そうして幾度も幾度も根気強く「誰かいな誰かいな」を繰返して、トウトウ「私で御座います」と白状させた。
「怪しからん。充分謡が出来もせぬ癖に大切なお能の舞台に出ようとするけに、他人《ひと》に迷惑をかけて、要らざる恥を掻きなさる。その心掛がいかん。私は出来ませんと云うて、何故最初から遠慮しなさらんかいな。鍛練に鍛練を重ねても十分につとまるかどうか判らぬとがお能の常習《つね》じゃ。そげな卑屈な心掛で舞台に出ても宜《え》えものと思うて居《お》んなさるとな。私の眼の黒いうちは其様《そげ》な事は許さん。今度の地謡にはアンタ一人出席を断る。この次から了簡を入れ換えて来なさい」
とうとうその場で某氏は抓《つま》みのけられてしまった。
そのお能の当日の地謡の真剣さというものは恐ろしい位の出来であったという。(故林直規氏談)
◇
或る時、やはり五六人の門下が並んで同吟していた。相当出来た人ばかりであったが、その中の一人が正座した足趾《あしゆび》の先で拍子を取っているのを敏感な翁が発見した。
「コラコラ。お前は足の先で拍子をとり居ろうが」
その人は愕然《がくぜん》として色を失った。翁は怫然として言葉を続けた。
「拍子謡はならぬと云うのに何故コソコソと拍子を取んなさるか。其様《そげ》に拍子を取って謡いたいならほかの遊芸をば稽古しなさい。まっと面白かもんのイクラでもある」(桐山孫二郎氏談)
◇
度々筆者自身の事を書くので如何にも名聞がましくて気が差すが平にお許しを願いたい。
筆者の祖父は旧名三郎平、黒田藩の応接方で後、灌園と号し漢学を教えて生活していた。私は生れると間もなくからその祖父母の手一つで極度に甘やかして育てられたものであった。
祖父は旧藩時代から翁のお相手のワキ役を仰付られ、春藤流(今は絶えた)脇方の伝書聞書を持っていた。
そのせいか祖父灌園は非常というよりも、むしろ狂に近い只圓翁の崇拝者であった。筆者の父や叔父、親類連中は勿論のこと、同郷出身の相当の名士や豪傑が来ても頭ごなしに遣り付ける、漢学者一流の頑固な見識屋であったにも拘らず、翁の前に出ると、筆者が五遍ぐらいお辞儀をする間、額を畳にスリ付けてクドクドと何か挨拶をしていた。まるで何か御祈祷をしているようであった。
翁から何か云われると、犬ならば尻尾を振切るくらい嬉しそうに、
「ハイ。ハイ。ハイハイハイハイ……」
と云ってウロタエまわった。
その祖父灌園は方々の田舎で漢学を教えてまわった挙句《あげく》、やっと福岡で落ち付いて、筆者が大名小学校の四年生に入学すると直ぐに翁の許に追い遣った。
「武士の子たる者が乱舞を習わぬというのは一生の恥じゃ」
といった論法で、面喰っている筆者の手を引いて中庄の翁の処を訪うて、翁の膝下《しっか》に引据えて、サッサと入門させてしまった。その怖い怖い祖父が、翁の前に出ると、さながら二十日鼠《はつかねずみ》のように一《ひ》と縮みになるのを見て筆者も文句なしに一縮みになった。封建時代の師弟の差は主従の差よりも甚だしくはなかったかと今でも思わせられている位であった。
まだ十歳未満の筆者が、座ったまま翁と応待していると、祖父が背後からイキナリ筆者の頸筋を掴まえて鼻の頭と額をギュウと畳にコスリ付けた事があった。礼儀が足りないという意味であったらしい。
前へ
次へ
全36ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
杉山 萠円 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング