ているそうであるが、その辺にも礼節格式を重んずる翁一流の謙虚な用意が窺われて云い知れぬ床しさが偲《しの》ばれるようである。因《ちなみ》にこの時の只圓翁の上京問題に就ては当時在京の内田寛氏(信也氏父君)、米田與七郎氏(米田主猟頭令兄)が蔭ながら非常な尽力をされたそうである。
 尚この時に翁は能楽|装束附《しょうぞくづけ》の大家斎藤五郎蔵氏に就いて装束|附方《つけかた》を伝習した。尤《もっと》も斎藤氏は初め翁を田舎の貧弱な老骨能楽師と思ったらしく中々伝習を承知しなかったそうであるが、現家元その他の熱心な尽力によってやっと承知した。現家元厳君、故宇都鶴五郎氏(能静氏愛婿)は屡々《しばしば》只圓翁の装束附お稽古のために呼出されてお人形に使われたという。
 その時代の事に就いて六平太氏は筆者にもこんな追懐談をした。前記の只圓翁の心用意を裏書きするに足るであろう。
「只圓は私を教えてくれた他の故老たちと違って、傲《おご》った意地の悪いところが些《すこ》しもなく、極めて叮嚀懇切に稽古をしてくれましたよ。不審な点なぞも勿体ぶらずにスラスラと滞りなく説明してくれました」
 なお六平太氏は只圓翁について語る。
「色々思い出す事も多いですが、只圓は字が上手でしたからね。私から頼んで家元に在る装束の畳紙《たたみがみ》に装束の名前を書いてもらいました。只圓は装束の僅少な田舎にいたものですから大した骨折ではないとタカを括《くく》って引受けたらしいのです。ところが、口広いお話ですが家元の装束と申しましても中々大層なものでね。先ず唐織から書き初めてもらいましたのを、只圓は何の五六枚と思って墨を磨っていたのがアトからアトから際限もなく出て来る。何十枚となく抱え出されるので余程驚いたらしいですね。閉口しながらウンウン云って書いておりましたっけ」
「酒は好きだったらしいですね。私は七五三に飲みますと云っておりました。多分朝が三杯で昼が五杯で晩が七杯だったのでしょう。小さな猪口《ちょこ》でチビチビやるのですからタカは知れておりますが、それでも飲まないと工合が悪かったのでしょう。『今日は朝が早う御座いましたので三杯をやらずに家を出まして、途中で一杯引っかけて参りました。申訳ありませぬ』と真赤な顔をしてあやまりあやまり稽古をしてくれる事もありました」
「面白いのは梅干の種子《たね》を大切にする事で(註曰。翁は菅公崇拝者)、一々紙に包んで袂《たもと》に入れておりました。或る時私が只圓の着物を畳んでいる時に偶然にそれが出て来ましたのでね。開いてみると梅干の種子《たね》なので何気なく庭先へポイと棄てたら只圓が恐ろしく立腹しましたよ。『勿体ない事をする』というのでね。恐ろしい顔をして見せました。後にも先にも私が只圓から叱られたのはこの時だけでしたよ」
 云々……と。師弟の順逆。老幼の間の情愛礼譲の美しさ。聞くだに涙ぐましいものがある。
 かくて新家元へ相伝の大任を終った翁が、藩公長知侯にお暇乞《いとまご》いに伺ったところ、御|垢付《あかつき》の御召物を頂戴したという。
 因に翁のこの時の帰郷の際には、藤堂伯、前田子、林皇后太夫、その他数氏の懇篤なる引留め運動があったらしいが、翁は国許の門弟を見棄てるに忍びないからという理由で聊《いささ》か無理をして帰ったらしい。しかもその以前から内々で引続いていた野中、荒巻両家からの只圓翁に対する扶助はこの以後も継続されたので、国許の門弟諸氏はその意味に於て荒巻、野中両家に対し感謝すべき理由がある事をここに書添えておく。

 明治三十三年の春頃であったか、福岡名産、平助筆の本舗として有名な富豪、故河原田平助翁の還暦の祝賀能が二日間博多の氏神櫛田神社で催された。番組は記憶しないが、京都から金剛謹之介氏が下って来て、その門下の「土蜘《つちぐも》」、謹之介氏の「松風」「望月」なぞが出た。筆者はその時十二歳で「土蜘」のツレ胡蝶をつとめた。
 その謹之介氏の「松風」の時、翁は自身に地頭《じがしら》をつとめたが中の舞後の大ノリ地で「須磨の浦半の松のゆき平」の「松」の一句を翁は小乗《このり》に謡った。これは申合わせの時にもなかったので皆驚いたらしかったが、何事もなく済んでから、シテの謹之介氏は床几を下って、「松の行平《ゆきひら》はまことに有難う御座いました」と翁に会釈したという。

 明治三十七年十月八日九日両日、門弟中からの発起で翁の八十八歳の祝賀があった。能は両日催されたが、翁の真筆の賀祝の短冊、土器《かわらけ》、斗掻《とかき》、餅を合せて二百組ほど諸方に送った。
 二日の能が済んだ後、稽古所で祝宴があった。能の祝宴も皆弟子中の持寄りで、極めて質素な平民的なものであった。

 明治二十五年四月一日二日の両日、太宰府天満宮で菅公一千年遠忌大祭の神事能が催さ
前へ 次へ
全36ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
杉山 萠円 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング