直規氏談)

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 翁の謡には「三ツ地」も「ツヅケ」もないと誰かが云っていた事を記憶している。むろんその当時の筆者には「三ツ地」が何やら「ツヅケ」が何やら解らなかったが、翁の後までも生きていた囃子方の古賀幸吉氏や栗原伊平氏は、
「実に打ちよくて、大きくて気乗りがした」
 と云っていた。
「拍子の当りなぞを気にかけるような謡は謡ではないぞ。能の本体はシテの面と装束じゃ。それを着けて舞うているシテの位取りを勘取って地謡が謡う。それを囃子方が囃すのじゃ。それじゃけに地謡は、いつも囃子方にこう打てと押え付けて行くだけの力がなくては勤まらぬものじゃ。力のある囃子方は時々自分の思う通りに位を取直そうとするものじゃが、そげな事をされるような地謡は舞台の上で腹を切らねばならぬ。間違うても囃子方の尻に付いてはならぬ」
 と翁は度々山本氏等に云っていた。

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 翁の歿後、右の言葉は直訳的に福岡の同流を風靡《ふうび》した傾向がある。同時に翁は間拍子のメチャメチャな所謂、我武者羅謡を推奨していたかのように誤解している間拍子嫌いの人も多かったらしいが、決してそんな事ではなかった。
 もちろん幼少未熟の筆者には、そんな事はわからなかったが、しかし翁の門下でも梅津朔造、山本毎、斎田惟成氏などは間拍子の研究がよほど出来ていたものと信ずべき理由がある。
 その中でも梅津朔造氏は囃子方、シテ方を通じての教頭格らしかった。能の前になるとよく囃子方諸氏が朔造氏の前に集まって申合せを行い、位取りや何かの叱正を受けている光景を見た。朔造氏が山本氏の中音の地謡を自身に張扇であしらって見せて、「ここの掛声をこういう風に一段と引っ立てて」なぞと指導している前で、囃子方諸老が低頭平身している情景なぞが記憶に残っている。とにかく朔造氏はよほど万事心得た人であったらしい。

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 山本毎氏は別に間拍子の研究をしなかったそうである。「一生懸命謡い居れば間拍子は自然とわかる」という翁の言葉を真正面から信じて、糞馬力《くそばりき》と糞勉強を一貫して大成したものだそうである。
 福岡県庁の低い吏員をつとめながら毎朝、蝋燭《ろうそく》を一挺持って中庄の翁の舞台に来て、夜の明ける迄謡う。それから出勤するという熱心振りで、間拍子なぞも出来るどころか、あんまりキチンとして囃子方に附合い過ぎるので翁から叱られる位であったという。

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 又斎田惟成氏は比較的後進だったので特にこの方面の研究を急いだらしく、出勤の途中でも、銭湯の中でも妙な放神状態で両手を動かして地拍子の取り通しであった。氏の居住地薬院附近では、これが名物だったので、道で遊んでいる子供等までも氏が来ると、
「斎田さん斎田さん」
 と云って両手を鰭《ひれ》のように動かしながら反り身になって氏の背後から跟《つ》いて行って、氏が振返ると逃げて来た。現教授佐藤文次郎君などもその真似上手の一人であったという。

 そんな次第であったから翁の門下の高足の人は、決して翁の歿後に福岡地方で流行したような我武者羅謡ではなかった。むしろ拍子の当りが確か過ぎるのを只圓翁が嫌って、今一層向上させるべく鞭撻《べんたつ》していたのを後人が、自分の力の足りなさから、自己流に解釈して、芸道を堕落させたものに相違ないのである。
 以上は拍子嫌いの我儘流諸氏、もしくば地拍子天狗の諸氏にとっては共に不愉快な記事かも知れぬが、翁の歿後、翁の訓言が如何に強く響き残っていたかという例証としてここに掲げておく。

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 故男爵安川敬一郎氏は先年筆者にかく語った。
「私が能に志したのは六十歳の時であった。当時福岡は只圓翁のお蔭で喜多流全盛の時代であった。喜多流に非ざれば能楽に非ずという勢いであった。そこでそれならば自分は一つ宝生流を福岡に広めてやろう。喜多流ばかりが能でないという事を事実に証明してやろう……という程のことでもなかったが、それ位の意気組でわざと宝生流のために尽力した。そのような訳合いで健次郎(松本氏)などと違うて私は翁の直門という訳ではない。しかし鼓を担いで翁の門下の人々の能をつとめたのは六十歳の時以来度々であった。あのような立派な先生が又現われるかどうかわかったものでない。私は今でも鼓と、宝生流の研究では若い者に負けないつもりである。年齢こそ八十の坂を越しているが、能に入ったのが六十歳だから能楽の弟子としてはまだ二十歳の血気盛りのつもりでいる。なまけてはいられぬと思うが、何しろ年で、鼓が肩の上でコロコロと運動するのでなあ。ハッハッハッ」

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 只圓翁は前記の通り稽古の上で素人と玄人の区別をしなかった。大勢の弟子を取っている人でも、自分
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