臆測類似の聞き伝えで、或《あるい》は筆者の聞き誤りか記憶違いかも知れない。況《いわ》んや宗家の記録と甚しい時代の相違があり、引例考証らしいものすら絶無であるから、ただ何かの参考としてここに記載しておくに止める。
 それから物変り星移って徳川時代に入り、筑前福岡が黒田の城下となった時、その梅津の本家の方は博多に在住してその頃の所謂《いわゆる》町役者となり、山笠に名高い博多の氏神、櫛田《くしだ》神社の神事能を受持っていた。現梅津正利師範は故梅津正保師範と共にこの家系の末に当っているのであるが、同時にその分家である今一軒の梅津氏は観世流の藤林家と相並んで藩公黒田家のお抱えとなり、邸宅と舞台を薬院|中庄《なかしょう》に賜わり士分に列せられていた。
 その後裔《こうえい》に当る黒田藩士梅津源蔵正武氏(正利氏令息で隠居して一朗といった)と、その妻判女(児玉氏)との間に一女二男が生まれた。
 兄は文化十四年丁丑四月十七日出生、梅津源蔵利春という。初め政之進、又は栄と名のっていたが、藩主長溥公の御沙汰によって改名したものである。それが後に隠居して只圓と号した。すなわち我が只圓翁であった。
 利春(只圓翁)の妻は黒田家播磨殿家士、梅津羽左衛門の娘で弘化三年に縁組したが、元治元年十一月に三十五歳で死別したので、明治三年七月、後妻として野中勝良氏の姉イト子と縁組した。尚、参考のため翁の姻戚関係を左に掲げておく。(翁生前の手記に拠る)
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◇姉セキ 弘化四年未六月一日生る。明治五年佐々木啓次郎に嫁す。
◇嫡子 梅津栄重利、嘉永三年戌二月十六日生る。明治四年未十月家督。明治十二年一月十八日卒す。無涯と号す。
◇二女マサ 嘉永五年子十一月六日生る。明治二年牟田口重蔵に嫁す。同二十五年八月十日卒す。
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[#地から1字上げ](以上先夫人の所生)
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◇三女千代 明治四年未九月晦日生る。明治二十四年野中到に嫁す。
◇養子 梅津利彦。牟田口重蔵三男。明治十五年十月二十五日生る。明治二十四年六月に養子す。明治三十年四月改名。明治三十七年十二月事故有て離別す。
◇養子 梅津健介。佐々木啓次郎次男。明治十一年六月十六日生る。同三十八年養子す。同年十月家督譲る。
◇弟 梅津九郎助。荒巻軍平養子となり伊右衛門という。後軍治と改めその後行度と改む。明治九年三月二十日卒す。行栄という。行年五十四歳。
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 元来梅津家は前記の通り、黒田藩お抱えの能楽師の家柄として喜多流を相伝していたので、利春は幼少の頃から部屋住のまま藩主斉清公の前に出て御囃子や仕舞《しまい》を度々相勤めて御感に入り、いつも御褒美を頂戴していた。
 続いて天保三年の春、師家へ入門の手続をして直ぐに秘曲「翁《おきな》」の相伝を受けた。時に利春十六歳と伝えられているが、これはその時代の事であるから直接上京して入門した訳ではないようである。大藩黒田侯の御取済によって、地方の神社祭事に是非とも奉納しなければならぬ神曲「翁」の允可《いんか》を受けたものであろう。ただ弱冠十六歳で、能楽師家担当の重大責務ともいうべき神曲「翁」の相伝を受けたという一事によって、その当時の黒田藩内の能楽界に於ける利春の声望と実力の如何に隆々たるものであったかが想像される次第である。
 それから利春は十二年後の弘化元年の春(二十八歳)と嘉永元年春(三十二歳)と両度上京した。喜多十三世|能静《のうせい》氏に就いて能楽を修業し、重習能《おもならいのう》、小習《こならい》等を相伝したという。
 次の話は翁のその頃の苦心をあらわすもので、或は逸話の部類に入れるべき事柄かも知れぬ。又出所等も詳《つまびら》かでないが、筆者が何かの大衆雑誌で読んだ事である。
 翁が能静氏の門下で修業中、名曲「融《とおる》」の中入《なかいり》後、老人の汐汲《しおくみ》の一段で「東からげの潮衣――オ」という引節《ひきふし》の中で汐を汲み上げる呼吸がどうしても出来なかった。そこで能静氏から小言を云われっ放しのまま残念に思って帰郷の途中、須磨の海岸で一休みしながら同地の名物の汐汲みを眺めていたが、打ち寄せる波が長く尾を引いて、又引き返して逆巻こうとするその一刹那をガブリと担い桶に汲み込んで、そのまま波に追われながら後退《あとしざ》りして来る海士《あま》の呼吸を見てやっと能静氏の教うる「汐汲み」の呼吸がわかった。同時に「潮衣――オ――」という引節に含まれた波打際の妙趣がわかったので、感激しながら帰途に就いたという。
 前記の通り事の真偽は知らないが、斯様《かよう》な話が世に伝えられているところを見ると、この当時の翁の苦心が多少に拘らず世に伝えられていた証左とし
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