は翁の門下でも古株で相当年輩の老人であったが、或る時新米の古賀得四郎氏が稽古に行くと、大先輩の粟生氏が「箙《えびら》」の切《きり》の謡を習っている。それが老巧の粟生氏の技倆を以ってしてもナカナカ翁の指南通りに出来ないので、何度も何度も遣り直しを喰《くら》っている。新米の古賀氏は何の「箙」ぐらいと思っていたのに案に相違して震え上った。「箙」なぞを滅多に習うものじゃないと思った。
 そのうちに粟生氏が「箙」の切の或る一個所をかれこれ二三十遍も遣直《やりなお》させられたと思うと、老顔に浴びるように汗の滝を流しながら、精も気根も尽き果てた体で謡本《うたいほん》の前に両手を突いて、
「今日はこれ位で、どうぞ御勘弁を……」
 と白旗を揚げた。古賀氏は今更に只圓翁の稽古腰の強いのに驚いていると翁は平然たる顔で、粟生氏を一睨して、
「そげな事じゃ不可《いか》ん。良く稽古しておきなさい」
 と誡《いま》しめてからクルリと古賀氏の方に向き直ってニコニコした。
「アンタにはあのように云わんばい」(古賀得四郎氏談)

          ◇

 芸の方も去る事ながら、癇癖と稽古の厳重さで正しく只圓翁の後を嗣いでいたのは斎田惟成氏であった。
 翁の歿後、師を喪った初心者で斎田氏の門下に馳せ参じた者も些少ではなかったが、斎田氏の八釜しさが出藍《しゅつらん》の誉《ほまれ》があったものと見えて、しまいには佐藤文次郎氏一人だけ居残るという惨況であった。
 それでも余りに斎田氏の稽古振りが酷烈なので、夫人が襖の蔭からハラハラしながら出て来て、
「そんなにお叱りになっては……」
 と諫《いさ》めにかかると斎田氏の癇癪が一層高潮した。
「女風情が稽古場に出入りするかッ」
 といった見幕で一気に撃退してしまった。
「叱られて習うたお謡じゃけに、叱って教えねば勘定が合わぬ」
 などと門弟に云い訳をする事もあった。
 その後斎田氏は勤務先の福岡裁判所から久留米に転勤すると、タッタ一人残っている門弟佐藤文次郎氏のためにワザワザ久留米から汽車で福岡まで出て来て稽古をしてやった。弟子よりも先生の方がよっぽど熱心であった。
 その稽古腰の強いこともたしかに翁の衣鉢《いはつ》を嗣《つ》いでいた。(佐藤文次郎氏談)

          ◇

 翁の門下には名物と云われていた人が三人在った。一人は間辺某という人で、梅津朔造
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