故梅津正保氏等を含む一団の高弟連中は毎月一回|宛《ずつ》、村上彦四郎氏邸や、その他の寺院等で謡会を開いた。
 その中心となって指導していたのは斎田惟成氏(当時福岡地方裁判所勤務)で、その会を開く前日は必ず翁の枕頭に集まって役割の通りに謡って翁の叱正を受けた。万一翁のお稽古が出来ない場合には会の方を延期するという真剣さであった。
 その素謡《すうたい》会の席上で梅津正保君の調子が余りに大きいので、調子の小さい河村武友氏が嫌って前列に逐《お》い遣ったという挿話などがあった。
 翁の臨終の前年頃になると、翁の老衰の程度が、時々段落を附けて深くなったものであろう。出張教授をしている梅津朔造氏や山本毎氏等の処へ度々至急電報が飛んだ。
 最初のうちは両氏等も倉皇として翁の枕頭に駈け付けたが、その後同じような至急電報が頻々として打たれたので、両氏も自然と狼狽しなくなった。そう急に死ぬ老先生ではないというような一種の信念が出来たものらしかった。
 そのうち明治何年であったか、京都で何かの大能が催さるるとかで、翁の状態を知らぬ旧知、金剛謹之介氏から翁に出演の勧誘状が来た。
 その手紙を見た翁は直ぐに傍《かたわら》をかえりみて云った。
「折角の案内じゃけに行こう。まだ舞えると思うけに京都迄行って、一生の思い出に直面《ひためん》の『遊行柳《ゆぎょうやなぎ》』を舞うてみよう」
 傍《かたわら》の人々は驚いた。急遽門弟を招集して評議した結果、翁の健康状態が許さぬ理由の下に翁を諫止《かんし》してしまった。万事に柔順な翁は、この諫止に従ったらしいが嘸《さぞ》かし残念であったろうと思う。こうした出来事には人道問題、常識問題等が加味して来るから一概には是非を云えないが、まことに翁のために、又は能楽のために残り惜しい気がして仕様がない。舞台で倒れるのは翁の本懐であったに違いなかったのだから……。後年、熊本の友枝三郎翁が、「雨月」を舞い終ると同時に楽屋で急逝したことは心ある人々の讃嘆するところであった位だから。

 明治四十三年(翁九十四歳)、日韓合併の年の七月二日、風雨の烈しい日であった。
 柴藤《しばとう》精蔵氏(当時二十三歳)は朝から翁の所へ行って謡のお稽古を受けていたが、その途中で翁が突然に「オーン」と唸り声を上げた。同時に容態が急変したらしいので、枕頭にいた老夫人と女中も狼狽して柴藤氏をして医
前へ 次へ
全71ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
杉山 萠円 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング