一人の楽みにしている人間でも老若を問わず一列一体の厳格さでタタキ付けた。生半《なまなか》な喜多流を残すよりはタタキ潰した方が天意に叶うと思っていたらしい精進ぶりであった。
 そのために翁の歿後、翁の遺風を継ぎ、翁の衣鉢《いはつ》を伝えるに足る中心人物が、今の福岡には一人も居ない。
 これは筆者の俗情には相違ないが、只圓翁が今少しく理想を低くして俗情になずみ、その指導振りをモット素人向きに、わかり易く門下の芸能と調和させていてくれたならば、こんな事にはならなかったであろう……なぞと時折り思う事がある。筆者も翁の門下から途中で逃げ出した一人だから斯様な事をいう資格はないが。
 しかし又、一方から考えると只圓翁のような大達人は歴史上の英雄と同様、百年に一人出るか出ないかわからないのが通例である。況《いわ》んや福岡のような僻地に於てをやである。それだからといって言句を絶し、情理を超越した真の能楽の精神を強いて言句、情理の末に残そうとするのは、後に非常な弊害を残すことになる。それよりも「絶後の悲哀を覚悟していい加減な相伝者を残さぬ」という翁の行き方の方が、真の能楽の精神を後世に伝うる所以であったかも知れぬ。「命は天に在り。人間の工夫何の用か成さむ。斃《たお》れて後止む」というのが翁の末期の一念であった事が今にして思い当られるようである。
 翁百世の後、翁の像を仰いで襟を正す人在りや無しや。
 思うて此に到る時、自から胸が一パイになる。
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   只圓翁歿後の事


 これは蛇足かも知れないが、只圓翁歿後の福岡の喜多流界の状況を序《ついで》に簡単に書き添えておく。
 翁の歿後は前記梅津朔造氏、同昌吉氏及び斎田惟成氏が立方《たちかた》を指導し、山本毎氏が謡曲方面を宣揚していた。この諸氏が相前後して歿した後は河村、林、上原、水上(泰生氏父君)、持山、藤原の諸氏が謡曲を指導し、又能の方は大野徳太郎、柴藤精蔵両氏が熊本の大家故友枝三郎翁に師事し、次で現師範友枝為城氏、敏樹氏の両大家に参じ、観世流の諸氏と協力して各神社の祭事能を継続し、その他大小の能、囃子等を受持って東都家元六平太師を招いて、只圓翁の追善能記念事業を計画するなぞ福岡の斯界《しかい》を風靡していた。
 而して今から二十余年前大野徳太郎氏の歿後、福岡喜多会が成立するや、博多喜多流関係の能装束等の保管方を依頼さ
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