準2−93−14]骨《きょうこつ》と衰えたり。国のため捨つるこの身は富士の根の富士の根の雪にかばねを埋むとも何か恨みむ今はただ。我父母に背く科《とが》。思えば憂しや我ながら。いずれの時かなだむべきいずれの時かなだむべき」
この戯謡の文句を見ると野中到氏は両親の諫止をも聴かず、富士山頂測候所設立の壮挙を企てたものらしい。そうして只圓翁の凜烈《りんれつ》の気象は暗にこれに賛助した事になるので、翁の愛嬢で絶世の美人といわれた到氏夫人千代子女史が、夫君の後を趁《お》うて雪中を富士山頂に到り夫君と共に越冬し、満天下の男女を後に撞着せしめた事実も、さもこそとうなずかれる節があるやに察せられる。
◇
翁は家のまわりをよく掃除した。畑を作って野菜を仕立てた。
畑は舞台の橋がかり裏の茶の畝と梅と柿とハタン杏《きょう》の間に挟まった数十坪であった。手拭の折ったのを茶人みたように禿頭に載せたり浅い姉さん冠り式にしたりして、草を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》ったり落葉を掻いたりした。熊手を振りまわして、そんなものを掻き集めて畑の片隅で焼肥を焼いている事もあった。大抵|素跣足《すはだし》で尻をからげていた。
毛虫と蛙はさほどでもなかったが、蛇を見付けると、
「おおおお。喰付くぞ喰付くぞ。打ち殺せ打ち殺せ」
と指をさして逃げまわった。
◇
翁の家の門は槙《まき》の生垣の間に在る、小さな土壁の屋形門であった。只圓翁の筆跡で書いた古い表札が一枚打って在った。敬神家の翁の仕業であろう、傍《かたわら》に大きい、小さい、色々の御守護札が貼り付けてあった。
或る日の事、その門の敷居を跨ぐと、翁が南天の根の草を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]っていたので、
「先生。きょうは朔造(梅津)さんは病気で稽古を休みますと言伝《ことづて》がありました」
と云ったら、翁は「ウフウフ」と微苦笑して、
「今の若い者は弱いけに詰まらん」
と云った。その時の朔造氏は六十近かったと思う。
この話を帰ってから中風にかかっていた祖父灌園に話したら、泣き中風の祖父は叶わぬ口で、
「先生はイツモ御元気じゃのう。ありがたい事じゃ」
と云ってメソメソ泣き出した。
◇
翁はよく網打ちに行った。それも目堰《めせき
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