僧が急いでここを立ち去りますと、その後暫くの間は誰一人ここへ出て来るものはありませんでした。
 すると不思議にも直ぐに眼の前に並べてある昆布《こんぶ》の籠《かご》の内の一ツが、独《ひと》り手《で》にむくむくと動き出して、やがて横に引っくり返りますと、その中から海に飛び込んで行衛《ゆくえ》知れずになっていた美留藻が、首だけ出しましてじっと周囲《まわり》の様子を見まわしました。見るとそこ等には誰も居《い》ませんで、直ぐ前の横路地に、香潮の姿を見て逃げ出して行った果物屋の婆さんが、逃げかけに打っ棄《ちゃ》って行った灰色の大きなマントと、黒い覆面の付いた茶色の頭巾と、毛皮の手袋と木靴とがありましたから、それを盗んで手早く身に着けて、すっかりお婆さんに化けてしまいました。それから又あたりを見まわして、まだ誰も来ない事がわかりますと、今度は傍にあった果物の籠を抱えて、その中にいろいろの果物を拾い込んで外套の下に隠して、傍に在る金箱《かねばこ》に手をかけようとしました。その時にどうしたものか鏡の表が急に暗くなって、何も見えなくなったと思うと、今まで身動きもせずに王の頭の上に留っていた赤鸚鵡が、何に驚いたか急にバタバタと飛び降り、机の下に隠れてしまいました。

     十二 三ツの掟

 藍丸王はこれを見ると、急に不機嫌な顔になって、椅子から立ち上りました――
「何だ。何だ。誰かお前の嫌いなものが、扉の外に近づいて来るのか。よしよし。お前はそこに隠れておれ。俺が追い払ってやる」
 と云いながら急いで四方の窓を明け放して扉の傍へ来て――
「誰だ。そこに来ているのは」
 と云いながら扉を開きました。
 外には黄色い着物を着た青眼が、謹しんで敬礼をして立っていました。
「何だ。お前か。そして何の用事があってここへ来たのか。又この間の鸚鵡の時のように、鏡を乃公《おれ》から奪いに来たのか。鏡は最早《もはや》疾《とっ》くの昔に受け取りの儀式を済まして、居間の壁に取り付けてあるぞ。それとも他に用事でもあるのか。早く云え」
 と畳みかけて尋ねました。
 青眼は静《しずか》に顔を挙げて王の顔を見ましたが、忽ちハラハラと涙を流して申しました――
「嗚呼《ああ》。王様。御察しの通り、私が参りましたのはその鏡の事に就てで御座います。承《うけたまわ》れば王様は、私がお止め申し上げるのも御聴き入れ遊ばさず、あの水底《みずそこ》の白銀《しろがね》の鏡を御取り寄せ遊ばして、御居間に御据え遊ばしたとの事。まあ、何という恐ろしい事を遊ばすので御座いましょう。
 この間申し上げた、この国の古い掟を最早《もう》お忘れ遊ばしましたか。
『人の声を盗む者。人の姿を盗む者。人の生き血を盗む者。この三ツは悪魔である。見当り次第に打ち壊せ。打ち殺せ』
 只今までこの国に、人の声を盗む鸚鵡という鳥が一匹も居ず、人の姿を盗む鏡というものが一ツも無く、人の生血を盗む蛇というものが一ツも無いのはこの掟があるために人々が……」
「八釜《やかま》しい。黙れ」
 と王は烈しく叱り付けました。
「そのような事は貴様から聞かずとも、疾《とっ》くに俺は知っている。俺は今までのように、貴様に欺されてばかりはおらぬぞ。貴様は悪魔でもないものを悪魔と云って、俺を馬鹿にしようとしたのだ。この鸚鵡の御蔭で、俺は居ながらに世界中の声を聞き取る事が出来、又この鏡の御蔭で、俺は世界中の出来事をいつでも見る事が出来るのだぞ。この二ツのものがある御蔭で、俺は世界一の賢い者になったのだぞ。それに貴様はこの重宝な宝物を無理に俺から取り上げて、俺を王宮の中に睡むらせて、世界一の馬鹿者にしようとする。貴様はこの国第一の不忠者だぞ。貴様、よく考えて見ろ。何にも知らぬ世界一の馬鹿が王様になっているがいいか。それとも何でも知らぬという事は一ツも無い、世界一の賢い者が王様になっているがいいか。どっちがいいか」
「はい。それは賢こいお方が王様になっておいでになる方が、この国の仕合わせで御座います」
「それ見ろ。それに貴様は何のためにこの俺を、何にも知らぬ馬鹿者にしようとしたのか。何のために鸚鵡や鏡を王宮に入れまいとするのか」
「噫《ああ》、王様。それは御無理と申すもので御座います。王様はそんな鏡や鸚鵡をお使い遊ばさずとも、旧来《もと》から御賢こい有り難い王様でいらせられるので御座います。それにその鏡や鸚鵡が参りましてからは、王様の御眼を眩まし御耳を聾《し》いさせて……」
「黙れ。黙れ。この二ツのものは、今まで一度も俺を欺いた事はないのだぞ。それにこの二ツの物を悪魔だなぞと、無礼者|奴《め》が。何を証拠にこの二つが悪魔だと云うのだ。その証拠を見せろ」
「その証拠は昔から申し伝えて御座りまする、この三ツの掟が何よりの証拠……」
「アハハハハ」
 と王
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