日まで、警察の方でも仕事が多過ぎて手のつけようがないので、仕方なしにポツリポツリとやっている状態ですから、そう隅々まで行届きますまい。風紀の取締なんかは当分ほったらかしておくつもりらしいのです。怪しい処を一々手を入れていたら際限がありませんからね」
云々と。以て推して知るべしである。
一方に、震災当時の有様を今日まで残している処もある。去年の秋あたり、日比谷、上野、小石川のバラックの裏手を夜十二時過ぎに通ると、そこにもここにも怪しい男女が蠢《うご》めいていた。その付近は真面目な男女が通れなくなっている位であったという。
東京郊外、川向うの深川、本所、向島、亀井戸あたりの暗《やみ》から暗に続く木立の中や、バラックの空隙がどんな状態であったかは読者の想像に任せる。
この冬の寒気はこの風俗をその筋の取締以上に厳重に禁止した事であろう。しかし追々《おいおい》と近付く春のぬくみは、又もやこの醜態を東京市の内外に復活するであろう。
東京は文明国の都市か殖民地か
東京市内に於ける魔窟大繁昌の第二の原因は極めて皮肉で面白い。即ち震災を機会として試みられた当局の「私娼撲滅」である。
「公娼私娼の存在は文明国たる日本の恥辱」といったような議論をよく聴かされる。救世軍、婦人矯風会、その他の宗教関係の人々、又は或る一派の社会政策研究者、人道論者等のそれがそうである。
このような人々はよく外国の例を引くようである。
「外国の都市には私娼も公娼も無い。それでいてチャンと風紀が保たれている。公娼私娼を置かなければ遣り切れないような国民では駄目だ」
というような説さえも耳にする。
一方に、海外の殖民地を見て来た人なぞには、よく日本の娘子《じょうし》軍の威力を賞《ほ》め千切《ちぎ》る人がある。
「彼女達の魔力は無人の野山を見る間《ま》に都会にして終《しま》う。これを以て見れば、東京から吉原や千束町を除くものは東京の繁昌を呪うものだ。醜業婦は都市の繁昌のため欠くべからざるものだ」
なぞ云う人もある。
この二様の議論のどちらが怪《け》しかるか怪《け》しからないかは、人々に依ってそれぞれ意見があるであろう。
論より証拠、当局が東京第一、否、日本第一の魔窟浅草の千束町をたたきつぶした結果を見ればわかる。
醜業窟撲滅の結果
私娼は撲滅すべきものである。
人身売買のあらわれである。
青年堕落の直接原因である。
病毒の巣窟である。
曰《いわ》く何、曰く何……。
東京の浅草千束町――詳しく云えば千束町の一部と猿之助横町の一画全部、三町四方に蟠《わだ》かまる三百余軒の醜業窟六百余人の醜業婦は、このような理由で久しい間狙われていた。
しかし震災前までは当局でもどうする事も出来なかった。浅草区役所の収入の大部分が、彼女達の納むる税金で持っていたためだと皮肉る者もあった。
それが震災と同時に不許可を申し渡された。記者の勘定するところに依ると、現在では十三軒の果物、菓子店があって、お化粧をつけた女の姿がチラホラしているだけである。もし彼女たちが醜業をすると二十九日間の拘留に処し、写真を撮って所払いにする……こうして取締っていると処の警察では威張っている。
誠に大英断である。否、誠に結構な「試み」である。しかしその結果はどうか……。
東京市内付近へかけて八方に散った千束町の醜業婦は、その行く先々で醜業をやっている。
浅草券番の出現
浅草では同時に六百人を包容する券番が許可された。
この券番許可の裡面には、千束町の繁昌に依って存在していた或る二つの勢力、二百名の新生会員と百名の大成会員が大々的の暗中飛躍を試みた。新生会の方は千束町の撲滅に対して正面から反対して、飽く迄も昔の千束町を復活させてもらうべく運動をした。これに対して大成会の方は早く見切りをつけて、代りに券番の許可を出願した。そうしてその又裡面には、魔窟の中を横行していた公園ゴロが必死の活動を試みた。大和民労会の五六十名、河井徳三郎や高橋金次郎の乾児《こぶん》なぞが血眼になったという面白い来歴があるが、古い話だからここには略する。
こうしたヤッサモッサに対して、その筋は断乎たる方針を取った。そうして大成会の券番設置運動に対して最後の栄冠を与えた。この当局の措置に対しては、怪《け》しかるとか怪《け》しからぬとかいろんな噂もあるが、要するにその筋では最穏健な措置を取ったつもりらしい。
一円五十銭から七八円の女を求むる者が大多数
この浅草の大券番設置出願の本当の理由は、今までの千束町の女を利用する目的でなかった。各地から新しい職業婦人を輸入して、千束町に代るべき頽廃気分を作るためであった。又、そうでなければ当局が許可する筈もなかった。
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