ロボロの百姓おやじに訪問を受けた時、わざわざ土間に降りて、低頭平身して挨拶をした。
「私どもは娑婆のアブク銭を掴んで喰う罰当りで御座います。お百姓様のような、正真正銘の仕事をするお方の上手に座るような身分のものでは御座いません」
というのがその趣旨であった。
当局の農村振興宣伝と間違えてはいけない。それとこれとは意味がまるで違う。都会に住む、手の白い役人や学者が、日給を貰って名文に綴り上げて、メガホンで吹き散らすお役目物の宣伝と、この侠客の態度とは、その真実味に於て、鉄の弾丸と風船玉ほどの違いがある。
吾々日本人は、この博徒の一親分の言葉に依って自覚せねばならぬ。同時に、地方の自然を相手に稼ぐ労働者諸君は、この言葉に依って覚醒せねばならぬ。
吾々地方人は東京に何物をも与えてならぬ。東京が如何に巧言令色を以て吾々を招くとも、これに眩惑されてはならぬ。東京の中で最も美しく、大きく、貴《たっと》く見えるものでも、地方人の額の汗の一粒に及ばぬ事を知らねばならぬ。
現在|擡頭《たいとう》しつつある無産階級の運動でもそうである。それが都会人、殊に東京人の指導下にある間は、将来、結局無価値なものとなりはしまいかと憂慮される余地が十分にある。
同時に、それ等の無産階級の人々が目標とし、規準とする生活が、東京人の生活と同様の意味の文化生活を夢見るものであったならば、それ等の人々の覚醒と運動とは、将来に於て無価値のものとなり終るべき可能性を、充分に持っていはしまいかと疑い得られるのである。
口も筆も不調法な地方の若い人の自覚の力
さなきだに、毒々しい薄っぺらな都会の文化は全人類に飽かれつつある。反対に、ジミな、精神の籠もった地方色や、真剣な個性に依って作り上げられた農民文化が尊重される傾向が出来つつある。そうして、その個性や地方色を集めたものを民族性と名づけ、その民族性に依って荘厳された文化を人類文化と称える、そこに個性と人類性との共鳴があり、そこに民族の自由解放の真意義がある――というような説が次第に高まりつつある形勢である。
吾が大和民族は一民族を以て一国家を形成している。すくなくとも欧米各国のように雑然たるものでない。そこに吾が民族性の強みがあり、そこに吾国の地方色の真実味が生れ、そこに洗練された吾が国民の個性の貴重さと偉大さが表現されなければならぬ
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