ある。
 塩せんべいは大枚十銭がものを買って噛《か》じって見たが、焼き加減にムラのあるのがよくわかった。
 ソバ屋へ這入って見たが、ツユの味なぞは福岡あたりのよりおいしいと思った。薬味のネギの中に古葉と新葉とあるのが、百姓だけにすぐ気が付いた。モリやカケはあまり売れず、弁当代りと見えておかめなんぞよく売れると聴いた。天麩羅《てんぷら》もよく喰われるそうであるが、そんな意味なり随分あじけない話だと思った。
 それから大奮発をして、この辺で一番上等だという小さなうなぎ屋に這入って、丼《どんぶり》を喰いながら店の若い衆に聴いて見たら、大串、中串、小串のどれでも、別に八釜《やかま》しい注文はあまりない。「アライところで一本」なぞいう御定連《ごじょうれん》は無いと云った方が早いくらい。しかも鰻《うなぎ》は千葉から来るのだと、団扇《うちわ》片手の若い衆が妙な顔をして答えた。
「本牧《ほんもく》から洲崎あたりのピンピンしたのは来ないのかい」と通らしい顔をして聴いたら、若い衆は「エエ」とニヤニヤ笑いながら返事をしなかった。念のため、「お客はみんな河岸のだろうね」と聴いたら、「ええ、だけどこの節は駄目ですよ。不景気でね。おまけに震災後手が足りないってんで、方々から来た人間を使っているんでね」と苦笑していた。記者は折角喰った丼が胸につかえるような気がするのを、流石にこれだけは昔のままの、濃い熱い「お煮花《にえばな》」で流し込んでここを出た。
 江戸ッ子の喰い物は田舎者の口や眼にもわかる位安っぽくなっている――「熊公八公の滅亡」という感じが直覚的に頭に浮かんだのはこの時であった。

     どこからか拳骨が

 しかし……と記者は又考え直した。
 こんな上っ面の見方ばかりでは駄目である。「わかりもしない癖に」と笑われそうな気がする。そこで今度は本願寺の横を河岸へかけて、この辺一帯に並んでいる小間物屋、仕立て屋、そのほかいろんな店を一々のぞいて見た。
 今度はよくわかった。喰い物の方は別としても、雑貨や何かの方は手に取って見ればわかる。否、手に取って見なくても、一わたりズラリと見ただけで、安っぽい店かどうかすぐにわかる。
 ……記者は江戸ッ子の衰亡を眼《ま》のあたり見せ付けられたような気がした。彼等はこんな見かけだおしの安物で満足しているのかと思うと、つくづく情けなくなった。十円の雪駄《せった》を素足で踏み、帷子《かたびら》に背当て尻当てをするのを恥辱とした、彼等の気前はどこにあるであろう。魚河岸ではしゃいでいる連中は、みんな見かけだけの江戸ッ子で、中味は「ヒマシ」になってしまったのか。そういえば、彼等のかけ声には昔のような中ッ腹式の威勢がなく、彼等の眼の光りも昔のようにキラリと光らないように見える。しかも何がしのパリパリでさえこうだから、他は推して知るべしだと思った。
 しかし……と又もや記者は考え直した。記者の観察にはまだ不充分なところが沢山にある。
 第一、記者がお見舞いした前記の喰い物店は、上等のところのつもりで、実はなっていない処ばかりだったかも知れぬ。又、魚河岸付近の店は、本物の江戸ッ子相手ではなく、江戸ッ子の中に立ち交った新分子ばかりを相手にしているのかも知れぬ。
 さもなくとも、記者が江戸ッ子を主眼として見てまわったのは、僅かの時日である。勿論、始終気をつけるにはつけていたが、本気に見てまわったのは二日か三日で、かなりの大急行である。震災後の江戸ッ子の真面目な活躍ぶり、もしくは生活ぶりを見聞できる時間をはずしてばかりあるいたかも知れぬ。
 これで江戸ッ子の滅亡をたしかめようというのはちっと気が早過ぎる。うっかりするとどこからか拳固が飛んで来るかも知れぬ。
 まだある。
 記者が見てまわったのは、震災前江戸ッ子の住んでいたところばかり。そのほかのところは調べてない。つまり今まで目標として研究したのは純プロ階級の江戸ッ子……熊公、与太郎、ガラッパチの旧跡で、ブル階級のそれではない。
 ブル階級の江戸ッ子……すなわち御隠居や若旦那の一人二人、鳶《とび》の頭《かしら》位はいつでも飼っておくからという連中は、もうとっくの昔に東京目抜の通りに帰って来て、古いのれんの蔭から盛に芽を吹いている。そうした大《おお》どこの旦那衆や親方たちの御蔭で東京に帰って来て、新しい、又は昔の商売をやっている江戸ッ子は随分居る筈である。
 まだある。
 昨年の震火災のあと、プロ階級の江戸ッ子はチリヂリバラバラになった。故郷の親戚に便《たよ》って逃げて行ったのもあれば、市から建てたバラックに逃げ込んだのもある。又は郊外に避難小舎を建てて、そのまま居据《いすわ》ったのもあるであろう。そんなのが、どれ位東京に引っ返して来て、どんな風に散らばって、どんな生活をしているかはまだ調べられていない。しかもその数はちっとやそっとではあるまいと思われる。
 それから今一つ、立ちん坊級の江戸ッ子というのがある。
 これは、プロに今一つ輪をかけたプロで、或る意味から云えば江戸ッ子以上の江戸ッ子とも云える。
 彼等のむれ[#「むれ」に傍点]は諸国から集まった労働者、又は江戸ッ子の成り下がりなぞから成り立っていて、金が無いのは勿論の事、知恵も才覚も気力も無い。うっかりすると名前までも忘れてしまって、只生れ故郷の国の名を呼ばれているといったような、理想的のプロが多い。
 もっとも、その収入はどうかすると日に二三円にもなるのがあるが、それは大抵飲んだり喰ったりして、上機嫌で寝るという風である。
 但し彼等の言葉だけはたしかに江戸弁で、しかもそれが又恐ろしく早い。俗に江戸ッ子の早口と云うが、立ちん坊の江戸弁と来ると、早口は通り越してアクセントばかりである。言葉の頭と尻、又は途中だけをツンケンと並べるのだから、余程慣れないとわからない。といって、正真正銘の江戸弁には相違ないから、彼等も江戸ッ子に相違ない。
 彼等は江戸ッ子のブル階級と同様に、震火災の打撃を徹底的に感じないだけの資格を持っているのだから、焼け死んでいない限り、東京に帰って来ているに違いない。そんなのは今どこに居るか。

     納豆の買いぶり

 こう考えて来ると、江戸ッ子の現状調査は非常な大事業になって来る。自転車に乗って、江戸八百八街を残りなく駈めぐるだけでも大変である。
 市政調査の結果はまだわからないし、わかっても、特に江戸ッ子だけ調べてはないだろうし、調べてあるにしても、昔から東京に居る人間を江戸ッ子と見てある位のものなら何にもならぬ。それよりも、人間のあたま[#「あたま」に傍点]に直接感じた事実の方が、よっぽどたしかであることは云うまでもない。
 何とかして東京市内に居る江戸ッ子の行衛《ゆくえ》を探る方法はないかと考えた末、納豆売りの巣窟を探しまわって売り子の話を聴いて見た。
 江戸ッ子の住家であるかないかは、ナットーの買いぶりや、喰いぶりを見るが一番よくわかるということを予《かね》てから聴いていたが、彼等売り子の話を聞くと、成る程とうなずかせられる。
 時間で云えば朝五時から八時まで、夕方は六時から九時頃まで納豆を喰う人種のうちに、江戸ッ子が含まれていることは云うまでもない。それから、買う時に苞《つと》をのぞいて、一目でよしあしを見わけるのは大抵江戸ッ子である。
「オウ、納豆屋ア」
 という短い調子や、
「ちょいと納豆屋さん」
 という鼻がかったアクセントを聞くと、いよいよ間違いはない。お神《かみ》が買い渋るのを、怒鳴り付けて買わせるのも大抵は江戸ッ子である。それから、買うとすぐに器用な手付きで苞から皿へ出して、カラシをまぜて、熱い御飯にのっけて、チャッチャッチャッと素早く掻きまわして、鼻の上に皺《しわ》を寄せながらガサガサと掻っ込んで、汗を拭う風《ふう》付きは、何といっても江戸ッ子以外に見られぬ。
「駄目じゃねえか、こんな納豆を持って来やがって。仕方がねえ、一つおいてきネエ。明日《あした》っから、もっといいのを持って来ねえと、承知しねえぞ」
 など云うのも江戸ッ子に限っている。
 こうして調べて見ると、江戸ッ子の居るところはあらかたわかる。
 先ず下町は山の手よりも多いのは無論であるが、山の手でも早稲田から青山、四谷、大久保方面にはかなり居る。下町では、初めに書いた昔の江戸ッ子町のほかに、大森から蒲田《かまた》へかけてはかなり居るらしく、小梅あたりには純江戸ッ子らしいのが居る。北の方、千住《せんじゅ》、亀戸、深川、それから芝の金杉方面にも居るには居るが、これは江戸ッ子としては少し品《しな》が落ちる。北の方から深川方面のは寧ろ貧民に近い方で、芝の金杉方面のは貧民ではないが、イナセな気分が些《すく》ない。尚、山の手で純江戸ッ子らしい気前を見せるのは青山方面だけで、そのほかのは矢張り貧民に近いか、又は多少シミッタレているとのことである。
 しかし、何といっても江戸ッ子が一番よけいに逃げ込んでいるのは、東京市内の各所にある市営の避難民バラックである。しかもここには江戸ッ子のあらゆる階級を網羅しているので、こちらには立ちん坊、そっちには俥《くるま》屋、隣りには呉服屋の旦那、向家《むかい》には請負師といった風である。非道《ひど》いのになると、新橋の芸者を落籍《ひか》して納まっている親分や、共同水栓で茶の湯を立てている後家さんも御座るといった調子で、これが大多数の熊公八公や諸国人種と入れまじって、天晴れ乞食長屋を作り、お上の立ち退き命令を鼻であしらっているわけである。
 ちょっと見ると、どれがどうやらわからぬし、納豆を売って見ても、その買いぶりに各所共通の避難民式というのが出来ていてわかりにくいが、流石に育ちは争われぬもので、よく気をつけて見ると、どことなく買いぶりが違う上に、言葉が第一争われぬそうである。
 記者が在京中のぞいて見たのは、日比谷と上野と芝公園のバラックだけであったが、こんな話を聴いたあとで見に行っただけに、バラックに居る江戸ッ子が想像以上に多いように思えた。

     かお[#「かお」に傍点]が焼け失せた

 以上述べたところで、震災一年後の江戸ッ子の消息はあらかたわかった。勿論極めてあらかたではあるが、彼等の東京市に対する価値や権威を考えて見るには、これで充分である。
 江戸ッ子衰亡の事実をたしかめるには沢山である。
 震災後、東京では救護事業が一渡り落ち付いて来ると、間もなく労働紹介や身上相談と共に、市内各地に巡回の調停裁判所を設けて、借家人と家主や地主の喧嘩をさばいてまわった。
 家主や地主は、これを機会に焼けあとに新しい家を建てて、高い家賃を貪ろうとする。そこへ前《まえ》居た店子が帰って来て、バラックを建てようとする。権利だ義務だと押合っている奴を、当局では片ッ端から裁判して、出来る限りブル階級の家主、地主をたたきつけ、プロ階級の店子や借地人の肩を持って、一日も早く昔の住民を落ち付かせて、家を建てさせ商売を始めさせようとした。これは明らかに当局の民衆化で、賞讃に価する所置であったが、一方に於いてこの方法が極端な江戸ッ子保護となったことは云うまでもない。
 然るに事実はどうかというと、この江戸ッ子保護の御蔭を蒙《こうむ》ったものは、或る一部のプロ階級の江戸ッ子で、大多数のプロ階級……即ち生っ粋の江戸ッ子はもとの処に帰っていない。東京郊外の空地の多いところのバラックに落ち付いたり、山の手の貧民窟にもぐり込んだり、又は深川、本所、千住あたりの乞食長屋に入りまじったりしている。そうしてそのほかの大部分は、市内各所のバラックに納まっていることがわかる。
 このほか東京近所の各府県、又は遠国に逃げ去ったままのものもあろうが、要するに彼等にはもとの処に帰って来る力の無いものが多いらしい。
 これは彼等が宵越しの銭を使うものを軽蔑したむくいもあろうが、一方には昨年の変災で受けた精神的打撃もあるに違いない。これを要するに、彼等の無気力さ加減はこの一事を見ても充分である。
 一方に、彼等が馬鹿にし切ってい
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