する。
 当り前に正しくすこし前下がりに冠るのは、当り前のすこし前下がりの外出の場合であるが、横っチョに冠るのは見もの聞き物に這入る場合、カフェーの中では阿弥陀に冠り、運動遊戯ではうしろ向きにかぶる。それからずっと目深く、うしろはボンノクボから前は眼から耳まで隠れるように冠る場合は、秘密の外出か訪問、又は変装用で、これに襟巻きをしてロイド眼鏡でもかけて首をちぢめると、ドンな名探偵でも誤魔化《ごまか》し得るという迷信から来たものである。
 更にその鳥打帽の下に這入っている香水入りのハンケチの種類、その隅《すみ》に縫い込んである文字の意義、そのハンケチの香《におい》に沁《し》みている頭の苅り方、その頭の香《におい》に沁みたハンケチと、女の内懐の香《におい》に沁みたハンケチとがどんな処で交換されて、どんな風に尊重されるか、こんな研究はあまり脱線し過ぎるからここでは略する。
 鳥打帽と関連して、東京の学生の生活を街頭に示しているのはその服装である。
 今度東京に来て暫くウロ付いているうちに、記者は不図《ふと》妙な事に気が付いた。どうも往来を歩く学生の数が震災前よりもすくないようである。変だと思って本郷、神田辺へ行って見ると、居るには居るが、それでも震災前よりは制服制帽の数が尠《すくな》い。早稲田や三田へ行くと、制服鳥打帽すらチラリホラリとしている位のことである。尤もこの辺は学校の近くだから、これは学生だなあと気が付き易いが、その他の処へ行くと余程気を付けないと学生とは気付かない位である。
 昔のような長い釣鐘マントはもう流行|後《おく》れになってしまって、オーバーを着ていなければトテモ幅が利かない。しかも学生のオーバーと来ると、普通の腰弁のよりも上等なのが多く、これに鳥打を冠って襟巻でもしていれば、黒いズボンに気が付かない以上、ドッチから見ても堂々たる紳士か貴公子である。
 ところがこの頃は又、私立大学仲間で変りズボンを穿き出した。しかも裾のマクレたのが流行《はや》るので、いよいよ学生だか何だかわからなくなった。おまけに鞄《かばん》まで鞣皮《なめしがわ》製の素晴らしいのが出来て来たので、最早《もはや》学生と見えるところは一ヶ所もない。只オーバーの下に隠れた金|釦《ボタン》だけという事になる。それでもまだ学生らしくなくするために、鞄を棄てて、書物やノートをポケットに入れて、指環をはめたりステッキを持ったりする。
 そんなに制帽が気に入らないのなら、寧《いっそ》の事制服までやめてしまって、背広か何かにしたらよさそうであるが、それは又そう行かない理由がある。
「アラチョイト、あなた学生さん? 可愛いわね!」
 てな声を聞きたいために、時々金釦を光らかして見せなければならないからである。今一つには給仕や安腰弁と見られないためもあろうし、も一つには上等の学問をしているエライ人の卵で、金を持っている時は、気前よく使う人種であるという事を、先方に合点させる必要があるかららしい。
 これを要するに、東京の学生はみんな出来るだけ制帽を冠るまい、鳥打帽を冠ろうと心掛けているので、トドのつまり東京で朝から晩まで真面目に制帽を冠っているのは、浅草の仲見世や縁日に出て来る物売りの角帽だけと云っても過言でない。
 余談に亘るが、こうした傾向は単に学生ばかりではない。日本全般のすべての方面にあらわれていて、云わず語らずの中《うち》に日本人全般の思想が或る重大な変化を来しつつある事を示している。
 皇室では恐れ多い事ながら成るべく民衆に親しく御接し遊ばすよう、すべての形式を御改廃中とかに洩れ承る。これに準じて官辺はもとよりすべての事が民衆化しつつある事は云う迄もないが、これにカブレて軍人までが官服を嫌うようになったそうである。そのような思想の変化が学生の鳥打帽となって現われた事は云う迄もない。

     鳥打帽下の新日本

 こうした学生仲間の鳥打帽の大流行に対して、学校当局はかく云う。
「震災後、学校の制服がどうでもよかった時代がありましたので、その影響でもありましょうか。いずれにしても彼等学生の腐敗と堕落は、この鳥打帽に原因しているに違いありません。大学生の中折れは、いくらか真面目な感じを含んでおりますので、まあいい方ですが、鳥打帽を見ると私共は、実に不愉快な、学校を軽蔑しているような、又は彼等の人格が疑わるるような一種の危惧の念に打たれざるを得ません。しかしこれを許さないと、学校の人気がわるくなるので止むを得ません。実に国家の青年の風紀上慨嘆に堪えぬ次第であります」
 これに対し学生の方はこう云う。
「制服制帽は官僚政治の遺風だ。偽善とか束縛とか因襲とかいう旧思想のお名残だ。学問は民衆的でなければならぬ。智識には囚われたところがあってはならぬ。だから鳥打帽の下に這入る智識こそ本当の智識と云うべきである。これを理解しない学校当局が日本にはまだ沢山居るから情けない。日本の前途のため実に慨嘆の至りだ」
 こう両方で慨嘆されては手の付けようがない。全く慨嘆の至りである。
 東京の中流学生の生活の中で鳥打帽一つを研究しても、かほどに広大無辺な意義を持っているので、そのほかの広大無辺さは到底筆舌の及ぶところでない。悉《ことごと》く鳥打帽の下に収めるのは不可能で且つ不自然である。
 併《しか》し彼等の生活の裡面は、よくこの鳥打帽で代表されていると思う。勿論それは物質的の生活と云うよりも、精神的生活に近い方面を主として象徴している。
 極めて低い意味で云う物質と精神の二つのうち、学生の生活はどちらに傾いているかと云うと、無論後者の方である。言葉を換えて言えば、学生の生活は世間一般の人のソレよりも、物質に支配される割合がごく少い。鳥打帽を買うにしても必要からでなく、只そういった気分に涵《ひた》りたいために二円乃至四円を奮発するので、参考書を買う余裕はなくても、新流行の鳥打を買う銭はあるのが彼等の生活の特徴である。
 こんな風だから彼等東京の学生生活には、一般人の生活と違った底抜けの自由さと奔放さがある。そうしてその自由さと奔放さは、震災後に流行する鳥打帽の下から現われたものでなければならぬ。
 彼等はこの鳥打帽式の自由な奔放な生活振りに依って東京を色付けている。風俗、商売、女等に彼等の思想傾向を反映さしている。
 排米問題の時、真先に米国物を買わなくなったのは彼等学生であった。ところが近頃舶来品排斥思想が一般に行き渡ると、真先にこの習慣を打ち破って舶来のノートや鉛筆を買い始めたのは矢張り彼等学生であった。舶来の石鹸、香水、歯みがき、ハンケチ等いうものを惜し気もなく買うのは彼等学生であるという。下宿屋で文化生活に凝るのは学生に限るとまで云われている。
 日本第一の剛健質朴を以て東都に幅を利かした一高の学生は、この頃|羅紗《ラシャ》のマントを好まなくなった。彼等の仲間にも鳥打帽が流行《はや》り出したという。
 一葉落ちて天下の秋である。震災後の東京に於ける制帽の凋落……鳥打帽の流行は、単に学生の平民化、智識の民衆化ばかりを意味するものであろうか。
 その鳥打帽は前の学校当局の言を借りて云えば、矢張り地震鯰が揺り出したものである。将来の新日本の中心文化が東京のバラックの下に芽生え育まれているものとすれば、その新文化の骨子たるべき新智識と新思想は、東京の学生が挙《こぞ》って冠る鳥打ち帽の下に養成されている筈である。その新智識と新思想は角帽や金釦を馬鹿にするだけの権威あるものでなければならぬ。鳥打帽を冠る学生諸君たるもの……豈《あに》奮発勉励せずんばあらざるべけんやである。

     職人の供給過剰

 東京市中の第三階級、即ち赤切符等は現在どんな生活をしているか。
 これはなかなか大問題で、記者のノートに止めてあるだけでも一年や二年では書き尽されぬ位である。だからその中で二ツ三ツ面白い事実だけを紹介して、その中に反映する彼等の生活を見て頂く事にする。但し街頭観の主旨にはそむくが……。
 第一は警視庁の人事相談所に持ち込まれて来るプロ階級の悲喜劇である。これを順序立てて観察すると、震災直後から今日までの彼等の生活の変遷がわかる。
 警視庁の人事相談所が丸の内のどこにあるか。どんな組織になっているか。そんな事はここには必要がないから略して、直接本論に移る。
 昨年、例の震火災があるとすぐに、警視庁では救護班を組織して、逃げ迷い、弱りたおれた人々の救護に従事した。これを九月十三日まで継続すると、次第に新しく持ち込まれる救護が減少して来たので仕事を打ち切った。
 この事実を逆に考えると、東京全市民が最も甚だしい酸鼻な境界にいたのは、九月の中旬頃までと見る事が出来る。……東京市中の手まわしのいい新聞社が、無代配布をやめて、月極めにし始めたのも丁度この頃からである。死ぬものは死に、助かるものは助かり、怪我人や病人はそれぞれ手当てを受けて落ちつく事になったのであろう。
 次に起る問題は助かった者の鼻の下の問題である。
 昨年九月十三日以後、警視庁で開始した労働紹介には非常な大群衆が押し寄せた。
 当局では管内の各署と協力して、これを片端から灰片付け、食料運搬等の仕事にまわして奮闘していると、約一ヶ月ばかりしてから市内の各自治団体で本式の職業紹介を開始したので、そっちに仕事を譲って、今度は人事相談所を開始した。
 以上の筋道を裏面から見ると、東京市中の人々は、生命を助かる道から生命をつなぐ道へという差し詰まった問題から、次第に人事のコザコザした相談へと落ち付いて来たその間が二ヶ月足らずという事になる。
 警視庁の人事相談所開始当時(大正十二年十月)は流石《さすが》に人探しの相談が多かった。これと一所《いっしょ》に家主や地主に対する苦情も非常に夥《おびただ》しく持ち込まれた。すなわち震災後二三ヶ月の間、東京市中の家や人が別々の意味で宙に迷いつつあった事を裏書している。
 その中《うち》に押し詰まって来ると、次第に人探しの申込みが減って来た。代りに対家主の苦情が殖《ふ》えると同時に、金の相談や証文の鑑定なぞが加わって来た。
「資本がほしいですが、無抵当で薄利で貸してもらう方法は」
「この金を預けるたしかな銀行は」
「これは焼け残った祖父の時代の証文ですが」
 なぞいうので、東京市内が次第に落ち付いて来た程度を説明している。
 このような状態が大正十三年度の三四月頃まで続いた。
 大正十三年度の三四月頃は、東京中の人気があらゆる意味でグラリと引っくり返った時機と見られているが、警視庁の人事相談所にもそうした影響が現われた。
 第一に大工や左官、その他の職人なぞいう労働者の賃金不払問題が盛に流れ込み始めた。
 震災直後の節季まではこんな現象は見られなかった。東京の復興を目がけて地方から押し寄せた連中は、皆引っぱり凧《だこ》にされていたのである。只釘を打って鋸《のこぎり》を使えれば大工で通る。藁《わら》さえ刻めば左官で通る。賃金が四五円から五六円という景気であった。
 その中《うち》に大正十三年の春になった。
 東京市中は次第に落ち付いて、ソロソロ日本中の不景気の影響を受け始めた。同時に今まで復興の労働者を歓迎していた親方や請負師連は、逆に賃金の不払を始めた。
 もともと震災直後の東京に押寄せて来た連中は田舎者にきまっているので、欺され易く、馬鹿にされ易い。そこをつけ込んで使うだけ使って突放して終《しま》うので、金は取れず、食費は嵩《かさ》む、仕事には有り付けぬ、というのが続々と出来る。そこへ春先の時候がよくなるに連れて、田舎の不景気にアブレた連中、又は前の年の東京の景気を聞き伝えた面々が、何という事なしに押上って来たので、いよいよ不景気の上塗《うわぬり》となった。
 東京は今日までもこうした職人の供給過剰となっている。
 ひと頃、いい加減な大工や左官が五円の六円のという勢であったのが、今では立派な腕の大工で四円五十銭、左官が三円以下という相場で居据わっている。それ以下のいい加減な職人が相
前へ 次へ
全20ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
杉山 萠円 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング