れば納まらぬからだそうである。
又、東京市中をまわって見ると、新しい鳥屋がかなり多い。這入って話を聴いて見ると、「震災後、小鳥道楽は下火になりました。鶉《うずら》はもとよりの事、鶯なぞも古くから研究している方がないでもありませんが、次第に廃《すた》れて行くようです。一番小鳥を余計にお買いになるのは若い御夫婦連れで……」という話。直接文化住宅をのぞいて見ても、大抵は何かほかの動物が付きものになっているようである。
「文化文化」と啼く鳥がいたら、どれ位歓迎されるであろう。
こうなると「文化」の意味が一層わからなくなる。何の事はない。文化生活という事は、老人や子供を人間世界から追い出して、代りに禽獣や書物を取り入れた事になる。書物が親の代り、禽獣が子供の代りでもするのであろうか。とても当り前の教育程度では要点が掴みきれぬ。
ところがその掴まれぬところがいいかして、猫も杓子《しゃくし》も文化文化とあこがれている有様は、さながらに青空を慕う風船玉よろしくである。
こうして昇って昇って昇り詰めたら、日本はおしまいにどこへ持って行かれるだろうと心配になる位である。
こんな風船玉のようなフワ
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