に、夫人の蒼白い頬に、俄かに赤い血がかッとのぼってきた。
「――素晴らしい着想だわ」
 夫人は床をコンと蹴ると、発条《ばね》仕掛の人形のように、石油箱から飛びあがった。そして傍に脱ぎすててあった手術着をとりあげると、重い扉を押して、広い廊下を夫万吉郎の部屋の方へスタスタと歩いていった。

 いつも空腹なヒルミ夫人の冷蔵鞄が、腹一杯にふくれたのは、それから二時間とたたない後のことだった。
 その冷蔵鞄というのは、いつもヒルミ夫人の特別研究室に置いてあったものだった。それは最新式の携帯用冷蔵庫であった。夫人は時折、この鞄のなかに、動物試験につかった犬や兎の解剖屍体を入れて外を下げてあるいたものである。
 しかし今日という今日は、犬や兎の屍体はすっかり取り出されて、汚物入れのなかに移されてしまった。ひとまず鞄のなかは、綺麗に洗い清められ、そしてそのあとにバラバラの人間の手や足や胴や、そして首までもが、鞄のなかにギュウギュウ詰めこまれた。その寸断された人体こそは誰あろう、他ならぬヒルミ夫人の生命をかけた愛すべき夫、万吉郎の身体であったのである。
 ヒルミ夫人は、夫万吉郎の身体を、生ながら寸断して、この冷蔵鞄のなかに入れてしまったのである。
 では、ヒルミ夫人は、愛する夫を遂に殺害してしまったのであろうか。
 いや、そう考えてしまうのはまだ早くはないか。
 とにかくこうして、ヒルミ夫人は愛する夫の身体を冷蔵鞄のなかに片づけてしまったのである。それからというものはヒルミ夫人は、その冷蔵鞄を必ず身辺に置いて暮すようになった。
 ちょっと部屋を出て廊下を歩くようなときでも、また用があって街へ出てゆくようなときでも、その冷蔵鞄はいつもヒルミ夫人のお伴をしていた。
 これで夫人は、愛する夫を完全に自分のものにすることができたと思っていた。もう夫は、街へ散歩にゆくこともなくもちろん他の女に盗まれる心配もなくなったわけである。
 夫人は歓喜のあまり、その日の感想を、日記帳のなかに書き綴った。それは夫人が生れてはじめてものした日記であった。その感想文は次のようなまことに短いものであったけれど――
「×年×月×日。雨。」
 気圧七五〇ミリ。室温一九度七。湿度八五。
 遂に妾《わたし》は、決意のほどを実行にうつした。
 この世に只ひとり熱愛する夫を、特別研究室に連れこんで電気メスでもって、すっかり解体してしまった。夫は最後まで、今自分が解体されるなどとは思っていなかったようだ。
 妾の激しく知りたいと思っていたことは、夫として傍に起き伏している一個の男性が、果たして真《まこと》の万吉郎その人であるかどうかを確めたかったのである。だから妾は、夫の躰をすっかりバラバラに解剖してしまったのだ。
 剖検《ぼうけん》したところによると、それは全く、真の夫万吉郎の躰に相違なかった。いや、万吉郎の躰に相違ないと思うという方がよいかもしれない。いやいやそんな曖昧《あいまい》な云い方はない。それは万吉郎その人以外の何者でもあり得ないのだ。
 なぜなれば、その男性の身体は常日頃、妾がかねて確めて置いた夫の特徴を悉《ことごと》く備えていたからである。たとえば内臓にしても、左肺門に病竈《びょうそう》のあることや、胃が五センチも下に垂れ下っていることなどを確めた。(夫の外にも同じ顔の同じ年頃の男で、左肺門に病竈があり、胃が五センチも下垂している人があったとしたら、どうであろう? いやそんな人間があろう筈がない。偶然ならば有り得ないこともないが、偶然とは結局有り得ないことなのである。妾はそんな偶然なんて化物に脅かされるほど非科学者ではない!)
 妾は思わず、子供のように万歳を叫んだ。愛する夫は、今や完全に妾のものである。今日という今日までの、あの地獄絵巻にあるような苦悩は、嵐の去ったあとの日本晴れのように、跡かたなく吹きとんでしまったのだ。なぜもっと早く、そのビッグ・アイデアに気がつかなかったのだろう。
 始めの考えでは、妾は剖検を終えたあとで、夫の躰を再び組み直して甦《よみがえ》らせるつもりだった。妾の手術の技倆によればそんなことは訳のないことなのであるから。――だが妾は急に心がわりしてしまった。
 恋しい夫のバラバラの肢体は、そのまま冷蔵鞄のなかに詰めこんでしまった。夫の手足を組み立てて甦らせることは暫く見合わすことに決めた。何故?
 妾はゆくりなくも、愕くべき第二のビッグ・アイデアを思いついたからだ。恐らく妾は今後二十年を経るまでは、夫万吉郎のバラバラ肢体を組立てはしないだろう。二十年経つまでは、夫の肢体を冷蔵庫のなかに入れたまま保存するつもりだ。なぜだろう?
 今から二十年経てば、妾はもう五十歳の老婆になる。整形外科術の偉力でもって、見かけは花嫁のように水々しくとも気力の衰え
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