ろう。ああなんと跳躍的進歩をとげた大医学よ。――」
万吉郎は悦びのあまり、男の手をとってひき起し砂利場の上で共に抱きあって狂喜乱舞したとは、莫迦莫迦《ばかばか》しいほどの悦び方だ。
「さあ君、僕と一緒にくるんだ。君のために素晴らしい儲け話を教えてやる。それに女も有るんだ。水のたれるような美味《おいし》そうな、そして素敵に匂いの高い女なんだ」
男は大口をあけて呆気《あっけ》にとられていた。
万吉郎のビッグ・アイデアとはどんなことであったろう?
さすがに利発なヒルミ夫人だった。
彼女は早くも、若い夫万吉郎の仇《あだ》し心に気がついた。
と云って、万吉郎もすでに知りつくしているように、ヒルミ夫人はいかに若い夫が仇しごとをしようとも、彼を離別するなどとは思いもよらぬことだった。いかなる手段に訴えても、恋しい夫万吉郎を自分の傍にひきとめて置かねばならないと思った。もし万吉郎が、自分のそばを一日でも離れていったときには、自分はきっと気が変になってしまうであろう。
そんな風に、可憐なるヒルミ夫人は若き夫万吉郎のことを思いつめていたのである。
臨床実験のことも、病院の経営のことも、いまや彼女の脳裡《のうり》から次第次第に離れていった。万吉郎を家から抜けださせないこと、そして他の女に奪われないこと、その二つのことがらを常々心にかけて苦労のたけをつくしていた。
だから、たまたま万吉郎が外出するときなど、他人には到底みせられないような大騒ぎが起った。ここには明細にかきかねるが、とにかくヒルミ夫人は万吉郎の身体に蛭《ひる》のように吸いついて、容易に離れようともしなかったのである。万吉郎はちょっと髪床《とこや》にゆくのだというのに、このばかばかしい騒ぎであった。
そんなことが、万吉郎の心をヒルミ夫人からずんずん放していった。それはそうなるのが当然すぎるほど当然のことだったけれどまたたしかに人間の情けの世界の悲劇でもあった。
「あなた、よくまああたしのところへ帰ってきて下すって」
夫が帰ってくると、ヒルミ夫人はひと目も憚《はばか》らず、潜々《さめざめ》と涙をながして、逞《たくま》しき夫の胸にすがりつくのであった。
そうしたヒルミ夫人の貞節が、万吉郎に響いたのであろうか、ヒルミ夫人の観察によればこの頃夫の万吉郎は、すっかり人が違ったようにすべての行為に関し純真さと熱情とをとりかえしていた。ときにいつもの口調で怒鳴りつけられることもあったが後で室《へや》に下ったときには、夫の機嫌はおかしいほど好転するのであった。ヒルミ夫人の考えではやがて昔のような生活の満足感がとりもどされるにちがいないと期待を持つようになった。
或る日のこと、ヒルミ夫人はただひとりで研究室にいた。彼女はその日、なんとはなく疲れを覚えるので、長椅子の上に豊満なる肢体をのせて、ジッと目をとじていた。前にはよくこうして睡眠をとったものである。夫人は久しぶりにしばらくここで睡ってみたいと思った。
ところがいざ目を閉じてみると、どうしたものか、逆に頭が冴々《さえざえ》としてきて、睡るどころではなかった。
「――神経衰弱かもしれない」
ヒルミ夫人は微かに頭痛のする額をソッとおさえた。
睡れなくなった夫人は、それでもジッと横になっていた。眼だけパッチリ明いて、動かぬ自分の姿態をながめていると、まるでそこに他人の屍体が転がっているように思えてくる。
ヒルミ夫人は、なんだかますます妙な気持になって来た。脳髄だけが、頭蓋骨のなかからポイととびだしてきそうな気がした。その脳髄にはいろいろな事象が、まるで急廻転する万華鏡のように現れては消え、消えてはまた変って現れるのであった。その目まぐるしいフラッシュ集のなかにヒルミ夫人は不図《ふと》恐ろしき一つの幻影を見た。それは愛する夫万吉郎そっくりの男が二人、手をつなぎ合って立っている場面だった。
「ああア、もしや本当にそうなのではなかろうか。いやそんなことがあってたまるものではない。――」
ヒルミ夫人は、その恐ろしき幻影を瞬時も早くかき消そうと焦せったが、しかもその幻影ははなはだ意地わるく、だんだんと濃く浮びあがってくるのであった。そのはてには、二人の万吉郎は夫人の方を指してカラカラと笑いころげるのであった。
なんという恐ろしい幻影だろう。
愛する夫が、一人ならず二人もあっていいだろうか。あの水々しい頭髪、秀でた額、凛々《りり》しい眉、涼しそうなる眼、形のいい鼻、濡れたような赤い唇、豊な頬、魅力のある耳殻――そういうものをそっくりそのまま備えた別の男があっていいものだろうか。
夫人は急にブルブルと寒む気を感じた。
だが夫人の明徹な脳髄は、一方に於て恐れ戦《おのの》き、そしてまた一方に於てその意味なき幻影を意味づけようとして鋭き
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