京都府か大阪府か知らないが有識階級の夫人たちである。
 その婦人たちも、遂に、名殘惜しげに社交會を終つて入場しだした。もちろん、長官夫人を先頭にして、彼女の夫たちの位階勳等の順序に一列に規則正しくお尻を列べて、練り込んで行くのであつた。その後から私がつづき、私の後から少尉夫妻がつづき、それから後にも尚ほ大勢の紳士淑女諸君がつづいて。
 時間はたしかに三十分を經過してゐた。

       眞珠の小箱

 東大寺の本坊の廣間に、私は執事長K師と對坐してゐた。押し開かれた障子の向には、世にも稀なる楓《かへで》の古木が庭一面にその枝を張つて、血よりも鮮やかな紅葉を正午《ひる》さがりの日光にかがやかしてゐた。華嚴宗らしくもない近代的な齋《とき》の饗應にあづかつた後で、私は經庫の拜觀を申し出た。經庫はアゼクラ式で、小さいながらも陳列はよく整理されてあつた。其處には奈良博物館に供託してある以外の舞樂面がまだ相當に所藏されてあつた。
 案内の役僧が、最後に前年大佛殿の須彌壇の下から發掘した貴重品を見せてくれた。それは光明皇后が聖武天皇の冥福のために納められたものとして昔から言ひ傳へられてあつたのを、主務省の認可を得て發掘したもので、御物であつたかと推定される御劒と銀の小箱である。御劒の刀身は青く腐蝕してゐるけれども、裝飾の黄金はゆらゆらと輝いて、千二百年間土中したものとは思はれないほどであつた。
 小箱は銀か白金か或ひはその他の合金か私にはわからなかつた。その中には本願皇帝の御齒が收められてありますと云はれ、私は板の間に坐つて、押しいただいて葢を開けた。内側の鍍金は昨日出來上つた物のやうに新しく光つてゐた。細かい字で一面に經文が彫られてあつた。收められた御齒は一個の大きな臼齒で、それがたくさんな眞珠で詰められてあつた。眞珠の大きさは皆同じ大きさで揃ひ、程よい古びを以つて、しかし、決して光澤を失はないで、まことに見事なものであつた。
 私はその小箱の眞珠の中に御齒を埋められる光明皇后と、御埋葬の佛事と、その背景としての佛法繁昌の奈良朝の盛時を想像することなしにそれを見ることはできなかつた。しかるに、もつたいないことに、私の手はつい載せてゐた小箱を傾けて、その中に充滿してゐた眞珠を床の上にこぼしてしまつた。私は恐縮してそれを拾ひ集めた。さうして役僧に、全部で幾十粒ですか、念のために改めてくださいと頼んだ。役僧は事もなげに、よろしうございますと云つた。
 それからしばらく小箱の眞珠のことが私の意識から離れなかつた。それには一つの恐ろしい想像が交つてゐた。その想像は床から拾ひ集める時に生じたものであつたか、後になつて思ひ出す時に生じたものであつたか、それさへも今ははつきりしない。ただ想像が想像ですんだから、私はそれを詩的に娯むことができるのである。
[#地から2字上げ]―昭和八年五月―



底本:「草衣集」相模書房
   1938(昭和13)年6月13日発行
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2006年9月19日作成
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