ゐた。すると、交通が杜絶して、イギリスはもちろん、フランスにさへ歸れなくなるかも知れない不安があつた。
バーのラディオにパリからのニューズがはひつて來た。アルマーニュ(ドイツ)の動員のことが放送されてゐる。東部國境へは三十箇師團の兵力が送られてゐる。パリ、ロンドンとワルサウ間の通信は斷えてしまつた。等、等……
いつの間にかバーの前には通りがかりの人が三人五人と足を留めて、默つて耳傾けてゐた。そこへ一人の年とつた女が、犬を牽いた子供の手を引いてやつて來て、竝木の蔭に立ちどまつて聞いてゐたが、子供と犬はたえず動きまはつてるけれども、彼女だけは身動きもしないで、最後まで熱心に聞いてゐた。息子でも召集されたのではないかと私は想像して見た。
その想像は恐らくまちがつてゐなかつただらう。といふのは、私たちはバーを出て近くの文房具屋をおとづれた。私の旅日記の手帖と繪端書を買ふためだつた。その家もI君の顏なじみで、日曜で締まつてゐたガラス戸ごしにかみさん[#「かみさん」に傍点]の顏が見えると、I君はそれを開けさせて、私を誘つて内へ入つた。さうして、みんな變りはないかと聞いた。肥つたかみさん[#「かみさん」に傍点]は、上の二人の息子が兵隊に取られたといつた。一人は三日前、一人は昨日取られたといつた。一番下の弟はどうしたと聞くと、それは家にゐるが今日は外出しているといふことだつた。かみさん[#「かみさん」に傍点]はそれを話すのに悲しさうな顏をしてゐた。私はその話を聞きながら、バーの前に立つてゐた年寄の女のことを考へた。
電話口で聞いたパリの聲には私はそれほど戰爭の實感を感じなかつたが、此の二人の女の姿には胸を衝かれるやうな或る物を感じた。今までは知らなかつたが、フランスではもう事實に於いて動員してゐるのだ。さう思ふと、町なかを默つて歩いてる女たちの顏が、思ひなしか皆憂愁に鎖されてるやうに見えだした。
またいつ來るかわからないから、ついでにビアリッツを見て行かうといふことになり、海岸の方へ車を駈けらし、一〇キロあまりで着いた。前世紀の初め頃までは人家百軒にも足りない漁村であつたのが、ナポレオン三世とその皇后が離宮を建ててから急速に發展し、今では地中海沿岸のニースと竝んでフランスの代表的な美しい海水浴場である。地勢に起伏が多いのが特長で、海岸には岩山が幾つか突き出てゐる。ナポレオンの離宮(今はホテル)に劣らない立派な建物(皆ホテル)が數多く竝んで、波打際に近いプロムナードには海水浴着の女や男が花やかに歩きまはつてゐた。イギリスの避暑客が多いのださうだ。その間に交つて、車を捨てて少し歩いて見ると、ここはまた別天地で、戰爭の實感などは、少しも起らなかつた。
それから日の落ちかかつた海岸の岩山の間を通つて、アンダイエの村にさしかかつた時は、もう暗くなつてゐたので、私は『お菊さん』の作者の舊宅を訪問することを斷念した。サン・ヂャン・ド・リュズを出て以來、氣がついて見ると、どこの村にも男の影が少いやうに思はれた。文房具屋のかみさん[#「かみさん」に傍点]とバーの前の年とつた女の影像がサン・セバスティアンに歸りつくまで私のあたまの中にあつた。
二 ※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]忙
今までは何となく戰爭にはならないですむのではないかといふやうな氣がしてゐたのが、早晩、戰爭は避けられないもののやうに思へるやうになつた。
それが私の國境を越えて持ち歸つた實感だつた。その實感はサン・セバスティアンの宿の空氣の中にもひろがつた。私たちは豫定より少し早めにパリまで引き揚げることにしようかと話し合つた。私たちの荷物はパリとロンドンに分けて預けてあつた。戰爭になつて交通が混亂状態に陷れば、持ち歸れなくなるかも知れない。それはあきらめるとしても、私たち自身の身體の始末にもこまることにならないとは限らない。イギリスへは多分歸れないだらうし、フランスへは歸れるとしても、日本の船が來られるかどうかわからない。イタリアが戰爭に參加しなければ、ヂェノアかナポリからアメリカへ渡るといふ方法もあるだらうが、イタリアが中立を守るかどうかもわからない。……
その時はエスパーニャからポルトガルへ出て、リスボアで日本の船をつかまへるといふ手がある。と、矢野公使は注意してくれた。實際、N・Y・Kラインの船が時時思ひ出したやうにリスボアに寄港することがあるのは私たちも知つてゐた。だから急ぐことはない。せつかく此處まで來てるのだから、もう少し腰を落ちつけて、形勢を觀望しながら見物をつづけてはどうだらう。さういつてくれるのだつた。(私たちは樂しみにしてゐたマドリィもトレドーも、セヴィーヤもグラナダもまだ見てないのだつた。)それに息子に逢ふためなら、パリまで歸る必
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