フランスの戰爭に日本人の方が興奮してるぢやないか。私たちはさういつたほど、なさけなく感じた。
もう戒嚴令が出たのだといふことで、町の角角には警官が武裝して立つてゐた。大通は目に見えて通行の車が多くなつてゐる。車の屋根にトランクを載せてあるのは、避難するものと見える。O君はオペラの近所までガス・マスクを買ひに行くといつて別れた。フランス人には七十フランで賣るものを、外國人からは三百五十フランも取るといつて、こぼしながら。
歸るとM君から電話で、明日午前十一時の汽車で正金銀行の行員の家族の一行二十七人がボルドーへ立つので、座席劵を取つたが、一人分餘分があるから、それを讓り受けて奧さんだけでも立つたらどうだらう、と知らせてくれた。私たちはM君の好意を謝して、さういふことにしようと相談し、支店長I氏に電話をかけてその餘分の一席を讓つてもらふことをたのみ、定刻一時間前にケー・ドルセーの停車場で待ち合はせようと約束した。二十七人は女子供のみで、男は二人だけ同行するのだといふことだつた。
私はこれで半分がた安心できるやうになつたが、私自身はまだどうなるかわからなかつた。フランス政府は明日動員令を發することになつてるので、各地方に集結してる軍隊の輸送で列車は不通になる箇所が多く、早くパリを離れないと、六日までボルドーへ行けるかどうかわからないといふやうなことをいふ者もあつた。それに停車場は非常な混雜で座席劵を手に入れることも容易でないとの話だつた。しかし、パリに居る多くの人はこれから田舍へ逃げ出したり、外國へ行つたりするといふのだから、私一人なら何とかしてその中に交つて脱出されない筈はないと思つてゐた。
夕方、彌生子はボルドーへ持つて行く荷物の中にぜひ入れて行きたいものが、M君に(エスパーニャに立つ前に)預けてあるトランクの中に入つてるので、それを取りに行きたいといひだした。タクシを拾はうと思つてもモン・パルナスの廣場へ行つて見ると、立場には一臺も車がない。通行の車の數はさつきよりも多くなつてるが、皆人が乘つてゐて、屋根には皆トランクやスーツ・ケイスが載せてあるのは避難者だといふことが知れる。車は引つきりなしに皆同じ方向へ駈けてゐる。仕方がないから、私たちはラスパーユからメトロに乘つた。
電車は滿員だつた。どの顏もみな緊張してゐた。いつものパリジアン・パリジエンヌの明るい朗らかな表惰ではない。パリはもう笑顏を失つたのだ。さう思ふと、いたましい氣持なしでは見られなかつた。
その中に一人の醉つぱらつた若い女が、丁度私たちと向ひ合つた席にかけてゐて、殆んどヒステリかと思へるほどの亢奮した調子で、たえず右隣りの蓮れの女に話しかけたり、ひとりごとをいつたり、時時左隣りの連れの男に接吻したりしてゐたが、ほかの人たちはにがにがしい顏をして輕蔑の目でその女を見てゐた。
エトワールで私たちは地上に出ると、もう夕闇が下《お》りてゐて、急に灯《ひ》の少くなつた市街はいやに陰慘な感じだつた。灯は皆紫つぽい藍色の灯ばかりで、それが殊にそんな感じを與へるのだつた。凱旋門は黒く大きく聳え立ち、その下に集まつてる人たちは、何を見てるのか、ぽかんとして、幾かたまりにもかたまつて立つてゐた。ひよつと氣がつくと、ブーロンニュの森の上あたりの暮れ殘つた灰色の空に大きな氣球が二つ黒く浮かんでゐた。
その邊も大通は車がヘッド・ライトを蔽うて織るやうに疾驅してゐた。その間をやつと横ぎつて、私たちは暗い歩道をアヴニュ・オッシュの方へ歩いて行つた。何度も來たところではあつたが、大使館邸の入口を探し出すのに少しまごついた。それほど市街は暗くなつてゐた。ベルを押すと、顏見知りの門番の親爺が出て來て、M君から電話で知らしてあつたので、私たちを荷物の置いてある部屋につれて行つた。
其處でトランクをあけて必要な物を取り出してゐると、やがてM君が代理大使と一緒に歸つて來た。丁度よいところだといつて食堂に案内された。食堂ボーイはもう召集令が下つてゐて、明日の朝入營することになつてゐた。しかし、それまでは義務があるといつて今夜も働いてるのだつた。それだけではなく、飛入の客人にすぎない私のために夜が更けてからケー・ドルセーの停車場まで使に行つてくれたりもした。
かれこれ十一時に近かつた。私たちは引き留められるまま、つい、いい氣になつて話し込んでゐた。彌生子は明日は確實にボルドーへ行けることになつてゐるが、私の方はどうなるか全然わからなかつた。代理大使は、列車は別でもなるべく明日立てたら立つた方がよいと思ふといひ、さつきボーイに電話でケー・ドルセーの停車場に座席劵一つだけ無理でも都合してもらへないか交渉して見るやうにと命じた。いつまでたつても返事がないので、呼んで見ると、ほかのボーイが現れて
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