だから、今となつてはあまり冒險をしないで、少くとももう一日觀望した上のことにしてほしい。M君は熱心にさういつてくれるのだつた。
 さういはれて見ると、私たちもその方がよいやうにも思ふやうになつた。理窟ではなく、氣持であつた。M君はパリに長くゐてさういつた方面の接觸も多いのだから、その忠言には耳傾くべきだと思つた。
 私は明日は大便館に用事もあるので、そこで午前中にまた逢はうと約束してM君と別れた。
 私たちの關心は同時にイタリアの向背にもかかはらないわけには行かなかつた。私たちの息子がローマの居住者となつてるからである。普通ならば、今夜か明朝あたりパリで逢へる筈だつたのだが、彼からは手紙も電報もとどいてなかつた。もう通信が杜絶してゐるらしい。それに、ローマでは、パリはすでに危險視されてるのかも知れない。

       五 九月一日

 明くれば九月一日。ドイツ軍は此の朝行動を開始したのであつたが、私たちが起き出た頃はそんな報道はまだ傳はつてなかつた。久しぶりで見るパリの朝の空は、エスパーニャほどではないが、それでもまことに明るく美しく、しかし、思ひなしか、町は何となく人けが少く、物靜かで、行きつけのカフェのテラスにもあいた椅子が多かつた。
 私たちはいつもの習慣で、カフェを飮み、クロワサンをかじりながら、しばらく往來の人通りを眺めてゐた。見たところ、別に變つた樣子はなかつた。廣場の向うの隅には、ロダンのバルザックがどてら[#「どてら」に傍点]を引つかけた湯歸りのやうな恰好をして、初秋の朝の日光をまぶしさうに浴びて立つてると、その手前の町角には見覺えのある若者が新聞を賣つてゐる。私たちの掛けてる横手の町角でも、小さい出し店の中で、腕の逞ましい、男のやうないつものかみさん[#「かみさん」に傍点]が相變らず無愛措《ぶあいそ》な顏をして新聞を前に列べてゐる。私はそこへ行つて一枚買つて來た。
 見ると、ヒトラーのポーランドに對する要求項目の主要なものが發表されてある。曰く、ダンチヒ自由市の即時返還。曰く、「廊下」地帶の人民投票に依る歸屬決定。曰く、人民投票準備期間を一箇年とすること。等、等。これは三日前にポーランドに通牒されたのだが、今まで發表されなかつたものである。しかし、ポーランドはすでに一昨日「廊下」の入口を閉ぢてしまつたといふのだから、それが明かに要求の拒絶を意味することはいふまでもない。幕は切つて落されるばかりになつてゐる。私たちは丁度よい時に歸つて來たのだ。
 それにしても、このパリの町の靜けさはどうしたものだらう? 誰を見ても、何事も起りさうにもないやうな顏つきをしてゐる。歩いてる者も、掛けてる者も。多くの人間はなんにも知らないのだ。ただ、一人か、二人か、三人か、極めて少數の者が、どこかの片隅で工作してゐるのだ。それが今にも全ヨーロッパを修羅の巷とするかも知れないのだ。……
 ――とにかく出かけよう。
 さういつて私たちはそこを出た。
 彌生子はすぐ近くのモン・パルナスの墓地の横手に家《うち》を持つてる菊池君夫妻を訪ねるために歩いて出かけた。私は大使館に行く前に日佛銀行に用事があるので、AEのバスでルーヴルの先まで行つた。
 日佛銀行ではエスパーニャから持ち歸つたペセタをフランに換へてもらはうとしたが、もう取引は中止されて、だめだといふことだつた。支配人のY氏は氣の毒さうな顏をして、
 ――形勢が急にわるくなりましてね。
と嘆息してゐた。いろいろと人を走らせたりして工作してくれたが、ポンドとドル以外の外國貨幣はフランにはならなくなつてゐた。
 その足でタクシを拾つて大使館に行つて見ると、意外にも柳澤健氏が待つてゐた。柳澤氏にはこの間サン・セバスティアンで逢ひ、その晩矢野公使と一緒に海岸の見晴らしのよい料理屋で晩餐を共にした。その時は家族の人たちと同伴で、これからパリへ行き、自分だけロンドンへ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて公使事務の引繼をして、もう一度リスボアに歸つて、日本へ立つのだといつてゐた。それで今ロンドンからの歸りにパリに立ち寄り、これから家族の人たちをボルドーの附近へ送りとどけて、自分だけ一人でポルトガルへ歸らうとしてゐるところだが、今こちらへ見えると聞いたので待つてゐた、といふことだつた。ボルドーへは近いうちに郵船鹿島丸が入つて來ることになるさうで、フランス在留の日本人は皆それに乘せて避難させることになつたといふ話を、私はその時初めて聞いた。事務官のT氏が專らその仕事を引き受けて計畫を立ててゐた。
 その話によると、鹿島丸は明日か明後日あたりマルセーユに着く豫定で、それをボルドーへ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]航させるまでに、ヂブラルターさへ順調に通過ができれば、五日間とはかからない
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