、せめてダックスまで――見送つてやるといつて、車の用意がしてあつた。
 住み馴れたサン・セバスティアンの山の上のヴィラ「ラ・クンブレ」を出たのは八時ごろだつた。バルコンの手摺にからみついた赤い薔薇の花も、アラビア風の拱門から垂れた蔓草の白い花も、何となく見返らずにはゐられなかつた。
 五日前の午後不安な氣持で通つた道を今日は朝の光の中に見ながら、いつしか國境を越えて、サン・ヂャン・ド・リュズもビアリッツも左の方に眺め、バイヨンヌの町を通り過ぎると、町はづれの木立に取り圍まれた草原の上で、一箇中隊もあらうかと思はれる兵隊が、極めて基本的な訓練をさせられてゐた。あの中にサン・ヂャン・ド・リュズの文房具屋の息子も交つてるのではないかと思はれた。事によると、兄弟三人とも。
 その邊から先は道が美しい森林の中を拔けるやうになつてゐたが、薄霧が下りて來て、兩側の竝木の枝がまぢり合つてトンネルのやうになつた行手の方は、ぼやけて見えなくなつて來た。それから先は、あと三〇キロも行くと國道第十號と呼ばれてる大きな道路と直角にぶつつかり、それを左へ折れて北へまつすぐに走れば、ボルドーに達する近道だつた。ボルドーまでそこから約二〇〇キロ、右も左も赤松の森林がつづいて、氣持のよいドライヴ・ウェイだつた。私たちはエスパーニャへ行つた時、ボルドーで汽車を捨てて、途中で日は暮れたけれども、夕月のおぼろな中をその森林を通つたので、おほよその地理はわかつてゐた。その時、森林の中で車に故障ができて、ショファが直してゐる間、前からも後からも車やトラックが引つきりなしに駈け過ぎたものだつた。
 しかるに今日はどうしたのか? だんだんとその國道第十號に近づいて行くのに、車は一臺も通らない。バイヨンヌを過ぎてからトラックを二三臺見たきりである。同乘の矢野氏にそのことを話すと、車は皆徴發されたのかも知れないといふことだつた。シンとした森の中で、今ごろは混雜してるかも知れないパリの空がいかにも遠く感じられた。
 霧は刻刻に濃くなり、一キロ先は殆んど見えないほどになつた。車はスピードが出せなくなつたので、ボルドーまで行つて急行に乘り後れてはつまらないから、近くのダックスで別れようといふことになつた。
 ダックスは、國道第十號と接合したところを右へ曲つて、しばらくまだ森林の中を駈けらせると、すぐ向うに現れた。
 ダックスは古い町で、ケーサルの時代にはゴールの土地(ラインとピレネーの間)の最西部の主都であり、ゴールのアクウィタニ(タルベリ)族が割據してゐたといふので、その時代の城壁が今も遺つてるといふことを、私は車の中で案内記によつて知つた。普通ならば車を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]して一見しないではすまさないのだが、十時三十五分のパリ行急行を取りはづしてはならないので、十三世紀の寺院と共にあきらめて、すぐ停車場へ直行した。
 停車場でパリへ電報を打たうとしたが、郵便局に行かなければ打てないといふので、町まで行くことになつた。ダックスはフランスで數少い温泉場の一つで、故杉村大使も馬から落ちて怪我をした時ここで療養してゐたと聞いてゐた。私は昨年の冬、ローマからロンドンへ行く途中、パリをおとづれて官舍に杉村氏を見舞つた時のことを思ひ出した。その時杉村氏はすぐれない顏色をしてゐたが、それでも元氣よくヨーロッパの形勢を論じて病人とは思へなかつたが、その杉村氏も今は故人となつた。……
 ダックスの町の入口にはアドゥの川が流れてゐて、長い石の橋が架かつてゐる。そこから見ると、左の方に深さ二十尺といはれる温泉の池があつて、白い煙が高く立ち昇つてゐた。郵便局に行くと、パリ宛の電報は(フランス人でも)警察の證明を持つて來たいと打てないことになつたといふ。事ごとに形勢の切迫を感じさせられる。しかし警察へ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてる暇はないので、よく事惰を説明し、公使の顏で發信してもらへることになつた。
 停車場に戻つて來ると、やがて列車が入つて來た。見送つてくれた公使と別れを惜んで私たちは車中の人となつた。
 今まではエスパーニャの旅行の延長のやうなもので、私の心像にはエスパーニャの事物がいつぱい充滿してゐた。嶮しい白い山、翡翠の空、羊の切身のやうな土の色、灰色の都市、田舍の赤屋根、寺院の尖塔、サボテンの舞踏、橄欖の群落、エル・グレコの青い繪、ゴヤの黒い繪、さういつたものが限りなく記憶のインデックス・ケイスに詰まつてゐて、何を見てもそれ等のものが比較のために顏をのぞけるのだつたが、さうしてそれが懷かしまれるのだつたが、不思議にも、汽車に乘つてしまふと、そんなものはすべてピレネーの連山と共に遙かの後《うしろ》の方へ後《あと》じさりして、行手のパリの空のみがしきりに氣にな
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