大戰脱出記
野上豐一郎
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一 パリとの通話
エスパーニャに居る間に中歐の形勢はどんどん惡化して行つた。
ドイツが突然ソヴィエトと握手したといふ報道がサン・セバスティアン(公使館所在地)に傳はつたのは八月二十二日(一九三九年)だつた。その朝私たちは食卓で前の日に見た鬪牛の話をしてゐた。そこへ入つて來た矢野公使にその話を聞かされた時は驚いた。ソヴィエトとドイツが不可侵條約を結んだとすれば、今までの防共協定なるものは同時に無意義なものになつたわけだ。世界の動向は全くわからない。
ドイツの行動が毎朝毎夕新聞を賑はした。ダンチヒにはドイツの大軍が集結してゐる。「廊下」の恢復は避けられないだらう。ポーランドは抵抗しないで蹂躙に委せる筈はない。英佛はさうするとどんな態度に出るだらう? そんなことが考へられた。
エスパーニャの自然や都市や生活や古い建築や美術を見て歩く間にも、斷えずそのことが頭の中から離れなかつた。初めはもつとゆつくりした氣持で見學がつづけられるつもりであつたし、矢野氏も私たちがあまり忙しなく大陸を歩きまはつてゐたのを知つて、一つは休養のために呼んでくれたのであつたが、若しかして戰爭でも始まつたら、私たちは日程を變更しなければならなくなるだらう。私たちはローマ大學で教へてゐる長男と月末にはパリで落ち合つて、一緒にもう一度イギリスへ行き、スコットランドを旅行しようと約束してあつた。その旅行にはベルリンにゐる谷口君も加はる筈だつた。しかし、それが實行できるだらうかといふ不安があつた。
二十四日に、ブルゴス、バレンシア、エブロー、ヴィットリアなどの旅から歸つて見ると、ローマの素一から手紙がとどいてゐて、中歐の情勢が險惡だからスコットランド行はできるかどうかわからなくなつたが、とにかく月末にパリまでは行くつもりだとあつた。それはドイツとソヴィエトの不可侵條約發表前に書いたもので、九月二日から五日まで開催の豫定のナチ黨大會で今後の形勢は決定するだらうとあつた。その頃、ローマではさう見てゐたのだらう。……
しかし、今日では形勢がすでに大旋囘をしてしまつた。戰爭になるか否かは英佛側の出方一つに懸かつてるやうな氣がする。明日にも戰爭が始まらないとも限らない。しかし、容易には始まらないだらうといふ氣もした。英國大使ヘンダーソン氏がベルリンでしきりに活動してるのが、さういつた一種の安心を世間に與へてゐた。昨年の危機に較べて今度は情勢がちがふから、またミュンヒェン會議が開かれるだらうなどとは思へなかつたが、少くとも英佛側は戰爭状態に入らないですむやうに極力努めてゐるやうに見られた。
いづれにしても、私たちとしては、月末にはパリまで引き揚げるつもりで出かけて來たのだが、それ以前に引き揚げる必要はなからうか? それをはつきり見極めて置きたかつた。それにはパリの大使館へ電話をかけて聞いて見るのが一番よいと思つたが、不自由なことに、エスパーニャからはどこへも國際電話が通じない。それで國境を越えて電話をかけようといふことになり、公使館のI君が私と車でサン・ヂャン・ド・リュズまで行つてくれることになつた。
二十七日の午後だつた。パサヘの港から見えるビスカヤの海は美しく晴れた空の色を反映して、南歐を思はせるやうな鮮明な碧色だつた。レンテリアの村では、日曜だからか、廣場に車を押し出して、その上に村の者らしい樂隊が竝んで、若い男女がそれを取り圍み、今に踊でも始まりさうなけはひであつた。私たちは車を徐行させてそれを見て通つてゐると、群集の中から二人の若い娘が出て來て、眞鍮の薄つぺらな小さい小劍型のバッヂを買つてくれとさし出した。「プロ・コンバチェンテス」(戰士のために)と呼んで、戰歿軍人遺族扶養の獻金章ださうで、一個三十錢以上といふことになつてるのだが、I君は日本の名譽のために氣前を見せて札びら二枚を奮發した。エスパーニャには全國を通じて日本人は十名とゐないので、どこへ行つても目だつといつてゐた。
イルンの町に近づくと、イルン川の左岸の高地にはトーチカが幾つも對岸のフランスの方へ向いて口を開《あ》いてゐた。内亂當時から築造にかかつて、まだ竣工してない。二週間ほど以前に私たちが國境を越えて此處を通つた時は日が暮れてゐたので見えなかつたが、その日はよく見ることができた。
イルンの町はアンダイエの村(フランス
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