講義のことに頭を使つてない時は、できるだけ多くの物を見て、できるだけくわしくメモを取つて置いた。それを皆すべて整理したら、此處に集めたものの數十倍の分量にもなるだらう。けれども日本へ歸つて來るとまた忙しい生活が始まり、整理したいと思ひながら、なかなかそれもできない。そのうち次第に印象も薄れて書けなくなるかも知れないと思つてゐた時、『日本評論』に一箇年間續けて何か書いて見ないかと勸められ、初めは一箇國について一題目づつ書いて見ようと思つて書き出したのだが、一箇國で二つ書いたところもあれば、一つも書かなかつたところもある。『日本評論』以外では、『思想』『文學』『文藝春秋』『帝大新聞』に書いたものを加へた。ほかに新たに書き足したものも數篇ある。最後の『大戰脱出記』は歸朝の當時『中央公論』に勸められて書いたものを添へたのである。
 校正しながら讀み直して見ると、どうも少し囘顧的でありすぎたり、考證的でありすぎたりする傾向が目だつ。しかし、之も私の物の見方のくせだから我慢していただきたい。私は、西洋の今日の文化は過去の文化の堆積の結果だと思つてるので、それを根本から見直してみたいといふあたまが働いてゐた。また西洋のことは西洋の人が一番よく知つてる筈ではあるけれども、彼等とても根據のない自尊心を固執したり、辯護し得ない偏見に煩はされたりすることがないとも限るまい。それで彼等の間では立派な傳統となつてる問題でも、われわれはわれわれとしてそれを修正し得ない理由はないと思つてゐる。だから、さういつた問題に逢着すると、つい理窟をいつて見たくもなるのである。
 それに、歴史的背景を描いて物を見ようとするくせが私にはあるやうだが、これはわれわれが例へば奈良へ遊びに行く場合を假定して見て、奈良の文化史的背景を實感しないで、ただ大佛を拜んだり鹿を見たりするだけでは、殆んど見學の意味をなさないことを考へてくださるならば、西洋の現状を西洋の文化史的背景の前に置いて見ようと試みた私の努力が、必ずしも個人的道樂でもないと理解していただけるだらう。
 終りに臨んで、これだけのものが本になるまでに、松本正雄・赤羽尚志兩君の厚意に負ふところが多かつたことを感謝する。

  昭和十六年七月[#地から3字上げ]著者



底本:「西洋見學」日本評論社
   1941(昭和16)年9月10日発行
   1941(昭和16)年12月10日第10版
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2006年9月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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