にすやすやと睡っていた。
それは『マタイ伝』に出ているが、『童蒙福音書』(第八章九ー一三)にはこう記されてある。
[#ここから1字下げ]
「かくてシカモアの木の下《もと》に行きぬ。今マタリアと呼ばる。マタリアにて主イエス一つの井戸を湧き出ださしめ、それにて聖マリア彼の衣を洗えり、その国に一つの香液《パルサム》生じたり。主イエスより其処に流れ落ちたる汗の滴より生じたるなり。それよりメムフィスに行き、パロ(エジプト王)に逢い、エジプトに三年住まいたり。」
[#ここで字下げ終わり]
しかし、此の記事は信用ができない。聖家族がマタリアからメムフィスへ行ったというのは有り得べきことだと思うが、メムフィスとてもその頃はヘリオポリス(マタリア)同様すでに荒廃して王都ではなかった。その頃の首府はアレクサンドリアで、しかもパロはとっくに存在しなくなって居り、エジプトはローマ帝国の領土になっていたのだから、パロに逢ったということもおかしければ、エジプトに三年住まっていたということもどうかと思われる。少くとも『マタイ伝』の記事とは矛盾する。
『マタイ伝』に拠ると、初めて天使がベトレヘムでヨセフに現れて、イスラエルの国を去れと警告した時、またわれ汝に示さん時までエジプトに留まれと約束した。やがてベトレヘムの幼児虐殺の後で王ヘロデが死ぬと、再び天使はヨセフに現れ、起ちて幼児とその母を携え、イスラエルの地に行けと命じ、幼児の生命を求むる者はすでに死にたり、といった。それで、ヨセフはヤーヴェの命に従い、マリアとキリストをつれて、イスラエルへ帰ると、恐るべき王ヘロデは死んだけれども第二の恐るべきアケラオ(アケラオス)が支配していたので、エルサレムに入ることを避け、ガリラヤへ遁れてナザレに住むことになった。
ヘロデの死んだのは紀元前四年か三年で、幼児虐殺の後あまり多く日数がたっていなかった。その間にヘロデは先妻の産んだ長男と二男を殺し、彼の弟をも殺したが、その死刑命令は王自身の死の床から発せられ、やがて後妻の産んだ息子のアンティパスがヘロデ二世としてユダヤの王となった。『マタイ伝』にアケラオの名を出してあるのは、アンティパスがまだ幼少だったので、その頃はアケラオが政治をしていたことを意味するのであろう。それはともかく、正直な天使はヘロデの死後すぐ約束通りヨセフに現れなかった筈はないから、そうし
前へ
次へ
全11ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
野上 豊一郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング