化が行はれて、初めに設計された意匠が今日どの程度まで保存されてあるか、全然見當がつかない。娯まれてゐた嵐山の眺望が失はれたのは、その一つのいちじるしい實例に過ぎない。今後更にどれだけの甚しい變化が生じないものか、誰に保證ができよう。
 位置を變へない植物について考へてもさうである。動く人間の體躯を素材とする舞臺藝術のことなどを考へて見ると、昔から嚴格に傳へられてゐる筈の型などといふものも、はなはだ心もとなく感じられる。伎樂は千年の昔すでに消えて無くなつてゐた。舞樂は今日なほ形ばかりは殘つてゐるけれども、それは靈魂の拔け去つた美しい屍骸に過ぎない。能樂はまだわれわれの手の中にあるけれども、併しそれは世阿彌の能樂ではない。否、秀吉や家康を喜ばした能樂でさへもない。もつと新らしい歌舞伎ですらも、元祿・化政のおもかげをそれに求めることは絶對に不可能である。舞踊・音樂だけではない。繪畫・彫刻・建築、すべて時の變化を蒙らないですむものはない。なんぞひとり桂の離宮の移り行く姿を嘆くを要せんやである。
 ――寓意。藝術はその作られた時に於いて最もよく生きてゐる。

       笑意軒

 もう一つ、桂の離宮の思ひ出。
 庭を一巡して、最後に笑意軒と銘を打つた亭に辿りつく。遠州侯の忘れ窓といふので名を得てゐる茶席である。軒端に近く、横に細長い窓が高く開《あ》いて、葛《かづら》の捲きついた竹の格子が半分だけ未完成の形に殘されてある。さういつた洒落《しやれ》た氣持は私にはどつと來なかつたが、ただ一つ印象に殘つてゐるのは、此の亭の後《うしろ》の窓の下がすぐ田圃になつて、そこから田植を見物するために、離宮の周圍はすべて竹林になつてゐるけれども、その部分だけは竹を植ゑないで、開けひろげてあつたことである。さうしてその視野の範圍内の田圃はすべて御領地となつてゐたことである。
 それについて思ひ出したのは、私の友人W君の本家がまだ退轉しなかつた頃、或る日、誘はれてその目白の庭園を見に行つた。以前の居住者T伯爵が宮内大臣をしてゐた時、木曾の御領林から切り出した檜材で建てたと噂されてゐた大きな寢殿造の建物なども見たが、そんなものよりも庭の方が私には興味があつた。起伏の多い廣大な地形が、巧みに、自然に利用されて、森森たる深山に分け入つたやうな感じを起させるやうに工夫されてあつた。溪流が曲りくねつてゐたり、岩角がそれをおびやかしてゐたりした。鹿の糞のやうなものや、兎の糞のやうなものが、ところどころ、草花の間にころがつてゐた。東京市内でありながら、どつちを見ても人家といふものが殆んど見えなかつた。ただ隣地の無隣庵の屋根が少しばかり木の間がくれに庭の一部分から見えるだけだつた。地勢は江戸川の上流の方へ傾斜して、川に近く芭蕉庵なるものが建つてゐたが、それ等を引つくるめて、早稻田田圃の稻の穗波が、目もはるかに、ひろびろと見睛るかされた。その田圃の、目のとどくかぎりが、W家の所有地で、其處に、その頃東京の場末に殖《ふ》えつつあつた小さい見すぼらしいマッチ箱みたいな人家を建てさせないために買ひ取つたものだといふことであつた。
 併し、一市民たるW家の勢力では、やがて早稻田の奧の方まで市電が伸びるやうになつた時、庭園の眺望の第一の要點なる稻田の保存に對して、電氣局の買收に抵抗することはできなかつた。
 ――此の話には寓意はない。
[#地から2字上げ]―昭和八年五月―



底本:「草衣集」相模書房
   1938(昭和13)年6月13日発行
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2006年9月19日作成
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