り、岩角がそれをおびやかしてゐたりした。鹿の糞のやうなものや、兎の糞のやうなものが、ところどころ、草花の間にころがつてゐた。東京市内でありながら、どつちを見ても人家といふものが殆んど見えなかつた。ただ隣地の無隣庵の屋根が少しばかり木の間がくれに庭の一部分から見えるだけだつた。地勢は江戸川の上流の方へ傾斜して、川に近く芭蕉庵なるものが建つてゐたが、それ等を引つくるめて、早稻田田圃の稻の穗波が、目もはるかに、ひろびろと見睛るかされた。その田圃の、目のとどくかぎりが、W家の所有地で、其處に、その頃東京の場末に殖《ふ》えつつあつた小さい見すぼらしいマッチ箱みたいな人家を建てさせないために買ひ取つたものだといふことであつた。
 併し、一市民たるW家の勢力では、やがて早稻田の奧の方まで市電が伸びるやうになつた時、庭園の眺望の第一の要點なる稻田の保存に對して、電氣局の買收に抵抗することはできなかつた。
 ――此の話には寓意はない。
[#地から2字上げ]―昭和八年五月―



底本:「草衣集」相模書房
   1938(昭和13)年6月13日発行
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2006年9月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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