法を、今一つ思ひきつて更に大膽不敵に、而かも斷えず動く日光を素材にしての手法は、たとひそれが一年のうちの或る限られた季節の、或る限られた時刻のものであるとしても、どうしてそれが小堀遠州の創意でないといふ證明がつけられ得ようか。
 ――此の感想の寓意は、藝術はどの時代のものでもわれわれの見る瞬間に於いてのみ感じ得るものだ、といふことである。

       賞花亭

 松琴亭から山道を辿つて、螢谷の孟宗竹を左手に見おろしながら月見臺へ出ると、その傍に一つの異風な亭が立つてゐる。賞花亭と名に呼ばれれば、桂の離宮の一景物らしくも聞こえるが、以前は紺と白の染分の暖簾の「たつた屋」と書いたのが軒に垂れてゐたといふ。ことほど左樣に、鄙びて、下世話にくだけた、どこか古驛の茶店といつたやうな感じのする建物である。
 そこに腰をおろして向を見わたすと、昔は庭木の梢を越して遠く嵐山の櫻が眺められたさうだ。亭の名はそれから來たのである。しかるに、今では、前方の三御殿のうしろの樹木が高く伸び繁つて、眺望は全く遮斷されてゐる。
 そのことを、東京に歸つて謙齋先生に話したら、賞花亭だけではありませんよ、一體にあの離宮の庭木は皆伸び過ぎてゐる、と云はれて、女松山の女松の話をされた。それは書院から松琴亭の方へ池づたひに行く左手の丘陵で、今日ではただ一本の大きな赤松が釣合のとれないほどに高く聳えてゐるきりであるが、昔は丘陵の上に程よい大きさの赤松が一面にむらだち繁つて、それに吹き入る風の音と、その下の落口の音が合して、琴の音色にきこえたといふ。女松山の下の汀に立つて、澄み透つた池水の底の、灰色の泥の上に、川蜷《かはにな》のやうな細い貝が縱横に痕を殘して這ひまはつてゐるのを見て居ると、旅に出てのどかな長汀曲浦にさしかかつた時のやうな氣持にはなれるが、なるほど、其處には、あつてよささうな松原はもはやなく、ただ一本のべらぼうに大きく伸びた赤松があるきりだつたのは、周圍の調和配合の上から見て、たしかに間《ま》がぬけてゐた。
 遠州の設計で此の庭の造られたのは天正十九年だと云はれてゐる。それから約三世紀を經過した今日までの庭の變遷のことを私は考へて見た。年がたてば伸びたでもあらうし、時期が來れば枯れたでもあらう。それには刈込もされたであらうし、植替もされたであらう。もともと生きた植物のことであるから、不斷に變
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