カバンを載せたやうに載つかつてゐた。人夫が大きな聲で呼びかけたけれども、ボートは歸つて來なかつた。丁度そこに二人の村の男が立つてゐたので、それに頼んでホテルまで舟を出して貰ふことにした。村は右手の山を越えて半里ほどの所に在るから此處から普通ホテルへ行く人は大きな聲でどなるのだ。さうするとホテルの人が聞きつけてボートで迎へに來るのだといつた。のんきで面白さうだけれども、不便と云へば此の上もない不便である。ホテルまでの距離は周圍が靜かだから呼聲でも聞こえるか知れないけれども、窓に立つてゐる人が男か女か見わけがつかない位に離れてゐる。道づれの二人の青年は、私たちより少し先に來て水の傍に立つて宿屋のある村の方とホテルの立つてゐる對岸を見くらべて話し合つてゐたが、私たちが舟を雇つてゐるのを見ると、また一緒にホテルへ同行することになつた。
 此處の湖は西湖よりも一層閑寂の趣があつて、それでゐて西湖ほど陰氣でなく、――それは半分は山に圍まれてゐるけれども、他の半面が直接に裾野に續いてゐるので、――美しさから云つても一等であるが、どうしてか水が減つて(岸に一丈ほど白い所が水面の上に殘つてゐた)方々に熔岩の洲が夥しく浮き出してゐた。けれども舟を漕ぐ男は、これは一時的の現象だと云つた。
 ホテルは外國人が三人(内二人婦人)と日本人が一人泊つてゐるきりであつたから、ベッドの二つづつある部屋を三つ借りることができた。廊下口から上つて行くと、家の中がからん[#「からん」に傍点]としてゐて、なんだか空屋《あきや》に入つたやうであつた。日本風の宿屋なら、先づ足を洗つたり茶が出たりするところであるが、私たちは草鞋も脚絆も解かないでぼんやり椅子にかけたまま、初めの十分間を不平を云ひながら過した。不平は皆んな足を投げ出したいといふのであつた。浴衣に着かへて廊下の手摺にでも兩足を投げ出したいといふのであつた。さうして風呂に入つて汗を流したいといふのであつた。さうして寢ころんで頬杖ついて話したいといふのであつた。それが出來ないからホテルといふものは親しみがないといふのであつた。これは日本人の生活の安易性から來た一つの習慣ではあるけれども、その場合の私たちの實感でもあつた。
 とにかくベルを押して水を取り寄せ、人の分前の少くならぬやうに氣を遣ひながら顏と手を洗ひ、それから炭酸水にウィスキをまぜて飮んだり、熱いコオヒを啜つたりした。それを運ぶのは、前週中に來た一人のウェィタと、一昨日から來てゐるといふ東京市麻布區六本木の少女である。――讀者は、私たちが宿屋につくとすぐ女中の戸籍をもう知つてゐるのに不審を懷かれるかも知れないが、これは恐らく諸君だつてさうであらうと思ふが、日本の紳士の一般の癖として、宿屋について、女中がまづお茶を持つてデブューすると、お前はどこから來てゐるか、名前は何といふか、更に、年は幾つか、……全く必要もない質問を發する習慣がある。
 私たちの集まつてゐた窓の前にはまつすぐな赤松が何本も立つて、その間から、肩を稍※[#二の字点、1-2-22]そばめ加減にして端坐した富士孃の、全身に夕日を浴びてまぶしさうにしてゐる姿が、時間の進むにつれてだんだんと近くなつて來るやうに見えた。私たちは明日の旅程について相談した。裾野を馬で越して大宮へ出ようといふ説と、峠を三つ越して甲府へ出ようといふ説が問題になつた。遂に前説が勝つて、ミス・六本木を呼び、馬を六頭明朝用意するやうに云ひつけてくれと頼んだ。馬はこれから約一里向の本栖《もとす》の村から引いて來るのだから今夜の内に命じて置かないと仕事に出てしまふだらうといふことであつた。
 精進湖《しやうじこ》で景色の美しさと共に氣に入つたことは、一體の空氣の靜かさであつた。山の間の湖といふ感じは今までの内で此處が一等である。ホテルの中も閑靜で、二間ほど離れた部屋から女の聲で英語らしいアクセントが微かに漏れるのと、時時ピヤノの音が聞こえるのと、それから日が入つて珍らしい鳥の啼き聲がし出したのと、音のするのはそれきりであつた。さうして今日途中で逢つたアメリカ人らしい若い男が相變らず上衣なしの姿で、大きなパイプをくはへながら窓の下を行つたり來たりしてゐた。
 食事は八時半だつた。それまでの一時間餘りを私たらは食堂の隅で雜談しながら過ごした。ピヤノと竝んだ書棚の中にはミセズ・オリファントやクロケットなどの小説が詰まつてゐた。食事は私たちだけ六人で一つのテイブルを圍み、少し離れて例のアメリカ青年と二人の婦人(若い方はキモノを餘り不釣合でなく着てゐた)が別のテイブルを圍んで、コオスは八つか九つであつた。料理はまづいけれども斯んな偏僻な山の中で肉が食へるのでみんな喜んだ。
 食後に虚山君と私は向の精進の村までボートを漕いで見ようと云つてゐたけれども、いつの間にか月が落ちて湖水が暗くなつたから止めにした。さうしてまた窓ぎはに椅子を寄せて明日の旅程についてさつきのつづきを話し合つた。馬で大宮方面へ出ることだけはきまつてゐるが上井出から先は鐵道馬車があるさうだから、馬は上井出まで(六里半とも七里ともいふ)にして、大宮に泊るか、身延へ(輕便鐵道で)出るか、それとも吉原へ行つて泊るか、或ひは富士驛に出て終列車で東京へ歸るか、と云つた風に、皆んなが別別の意見を持つてゐるだけならまだよいが、一人で幾つもの意見を持つてゐる者があるので、小田原評定に終つてしまつた。それで明日《あす》の事を思ひ煩ふ勿れといふことにして十時過寢室に退いた。どの部屋にもベッドは二つあるけれども蚊帳は一つづつしかなかつた。蚊はゐないといふことをミス・六本木が保證した。少くとも蚤はゐなかつた。
 六日。
 よく眠つて六時に起きた。二人の同行者(H君とF君)はもう洋服に着かへてゐた。私は青楓君を起こして、それから向の部屋へ行つて槇村・虚山兩君を起し、大急ぎで食堂にはひつて、トーストで腹をこしらへた。オレンジのジャムがおいしかつた。食堂には朝日が一ぱいにさしこんでゐた。もつと早く起きて今頃は山にかかつてゐなければならぬ頃だと思つた。
 馬を一時間の餘待たせた末、ホテルの裏は道がわるいからといふので、湖水の西端までボートで行くことにして、其處へ馬を廻はして置けと云ひつけた。ホテルを出る時には、昨日着いた時と反對に、日本風の宿屋よりもコンフォタブルだねといふ人があつた。ベッドの寢心地のよかつたのが理由であつた。
 ボートから上つて、雜木林を一丁ほど歩いて、只《と》ある空地《あきち》に出ると、其處に六頭の馬と六人の馬子が私たちを待つてゐた。軍隊生活をしたF君を除く外は馬には皆未經驗と云つてよい者ばかりであつた。皆んながおとなしい馬はどれだと云つた。けれども或る一頭を除く外は皆牝馬であつた。その一頭も去勢馬であつた。青楓君が一番にそれに乘つて、外の者が順順につづいた。殿《しんが》りのF君の外は皆んな口綱を取つてもらつた。
 道がすぐ崖の上に出た。右は山の側面であるけれども、馬は人の氣も察しないで左の崖の端を歩いて行く。そのわけを口取の親爺に聞いて見ると、毎日荷物を運んでゐる馬だから荷物が山の側にさはらないやうに端を歩く癖が出來てゐるのだといふことだつた。やがて少し平たい道になると、青楓君の馬は口綱をはづして逸早くトロットをやり出した。F君がそれにつづいた。あとの四頭は荷駄を脊負つたやうにぱッかぱッかと拾つて行く。親爺に荷駄を積んだのとどつちがいいかと聞くと、お客さんも上手に乘つてくれるといいが、たいがいなら荷物を三十貫位積んだ方がまだよいねといふことであつた。槇村君は後の方で頻りに乘り方について質問を發してゐたが、險しい上リ坂や、危ない下り坂になる度に、ハイハイと聲を立てて馬に注意を與へてゐた。それが怖い怖いといふやうにきこえてをかしかつた。けれども、道は全くひどい道で、石ころの多いことは箱根の舊道などの比ではなく、本栖《もとす》の村の入口の坂などは、後から考へて見ると、初めての經驗でよく乘れたと思はれるほどであつた。
 本栖の村は寂びれた貧しげな村であつた。坂を下る時、村の屋根ごしに青い水が廣く見えた。西湖に似て、更に淋しさうに見えた。湖水の縁まで下りて見るかと云はれたけれども、誰も下りて見ようといふ者はなかつた。それほどまだ馬に慣れてゐなかつたのである。昨日精進に着いて以來煙草がなくて弱つてゐた人はその村で買はせたけれども、馬上で吹かして行ける者は一人もなかつた。馬は私の乘つた馬だけが精進の馬で、あとは皆本栖の馬だから、村に入ると馬子は皆んな自分の家へ寄つたり、徃來に立つてゐる人に物を云つたりした。その間に虚山君の馬の口を曳いてゐた子供の母親らしい女が駈け出して、紙に包んだもの(大方菓子だらう)を小さい懷に入れてやつた。
 村を左へ折れて坂を上つて行くと、右手に湖水が遠くまで湛へてゐるのが見渡される。西湖よりも餘程大きさうである。湖はすぐ見えなくなり、木立も盡きて、まともに八月の太陽の光を浴びながら、石の多い道――と云ふよりも、凸凹の甚しい岩――の上を手綱を緩めたり締めたり(下りには緩めて、上りには締めろと教へられたので)しながら、馬の數倍の用心をしいしい進んで行くうちに、いつしか驚くばかり壯大な景色の中に立つてゐた。私は輕井澤から追分へかけての高原を歩いたこともあり、妙高山の高原を歩いたこともあるけれども、これほどの雄大な高原はまだ見たことがなかつた。富士は半分以上雲の中に隱れてゐたが、右の方にすぐ龍ヶ岳が聳えて、その山と富士の中間の臺地が私たちの前に限りなく遠くまで起伏してゐるのである。皆んな口口に、いいね、いいね、と叫んだ。どこを見ても一面の草原で、その間に秋草が咲いて、なでしこの色が湖水の縁のよりも一きは濃く、ところどころに菖蒲の咲いてゐるのも珍らしかつた。
 根原《ねばら》といふ村を過ぎる頃から、道はどんどん下りになつた。もう皆んな馬上の高さに慣れて、兩足の内腿で鞍を締めつけるやうにして馬の歩行のリズムにつれて腰を浮かす調子が幾らかわかつて來たから、(口綱はもう皆んなはづしてゐた、)時時トロットをやつて見ようとしたが馬はいふことをきかなかつた。私の馬と虚山君の馬は殊に後れがちであつた。虚山君のは十五歳の年増だといふことがわかつて大笑ひになつた。私の乘つてゐるのは姙娠五ヶ月だと聞いて、これは笑ひごとではなく、むしろ可哀さうになつた。のみならず、途中で氣がついたのであるが、下り坂になると左の後足を石にぶつつけるのでどうしたのかと思つたら、その足だけに大きな草鞋が結《ゆは》ひつけてあつた。まん中の爪を傷めてゐるのだと親爺が説明した。幾ら五圓になるからといつて姙み馬の、しかも怪我までしてるやつを引張つて來るのはひどいと思つた。それに乘り合はせたこともいまいましかつた。それから、全くめちやくちやな石ころ道を下りて、人穴《ひとあな》の村に出るまでに、私は馬がつまづいて二度までも投げ出されさうになつた。とうとう村に出る五六丁手前の坂で、私たち三人――私と虚山・槇村兩君――は馬を下りた。
 十一時半に人穴の村の或る店先を借りてサンドヰッチの中食をすませ、また馬に乘つて三里十何丁、上井出の村の手前から右へ少し後戻つて、白糸の瀧と音止の瀧といふのを見て、それから上井出の村に入ると、道の兩側にきれいな水が流れてゐて、家毎に水車が緩く廻つてゐて、海が近さうな涼しい風が吹き、久しぶりに町らしい町に入つたやうな氣持になつた。私たちは町はづれの茶店に休んでサイダを飮んだ。私の乘り捨てた憐れむべき姙み馬は或る蹄鐵工場に入れられた。
 三時半に上井出を發する鐵道馬車に乘つて、四時四十分頃大宮町についた。蒸し暑い小さい車臺の中でかんかん照りつける西日を受けながら、例の小田原評定をまた始めた。結局、大宮には登山客が雜沓するだらうから泊らないといふことだけをきめて、大宮から富士驛までの切符を買つた。
 富士身延の輕便鐵道は思つたより乘心地がよかつた。大宮町の停車場で、休刊してゐた東京の新聞が出てゐたこと
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