出者自身はそれを意識してゐなくとも)、教養の低い見物人を主体とする大衆に引きずられて演出その物が次第に低下して行くであらうことは避けられぬ運命である。
それにつけても一見不思議に感じられることは、能には、少くとも近代の能には、厳密な意味での舞台監督者といふ者がない。今日では、シテ(主役)は必ずしも舞台監督者ではない。ワキよりも地頭よりも未熟なシテの役者をわれわれはしばしば見る。後見は、見方に依つては舞台監督者の資格を持ち得る筈であるが、近頃の後見は助手以上の資格を持つ者は殆んどなく、時としては助手の資格をさへ持ち得ない者さへ見受けられる。本来シテが舞台の上で故障を起して舞ひつづけることができなくなつた場合は、後見が立ちどころに代役を勤めるべき約束があつたのだが、さういつた頼もしい後見は殆んど見られなくなつた。故宝生九郎翁は舞台から引退して後も、しばしば後見を勤め、また時として地頭を勤めてゐた。後見座にゐても、地謡の中に交つてゐても、彼が目を光らしてゐる限り、舞台は奇妙に引きしまつて、隠然たる一箇の舞台監督者であつたことは皆人の知るところであるが、九郎歿後そんな有力な舞台監督者を一人として発見することができないのは、能界の混沌状態を如実に暴露してゐるものと言はなければならぬ。
昔はどうであつたかといふと、一座の棟梁(大夫)といふ者が実力を持つてゐて、完全な統制が演出の上に及んでゐた。永享二年の奥書のある世阿弥の「習道書」を見てもわかるやうに、能は、もろもろの役員――シテ・ワキ・ツレ・アヒ・囃子方・地謡――の演戯が完全な一つの調和を保つてこそ初めて「舞歌平頭の成就」は生ずるのであるから、各員思ひ思ひの表現をすることは許されなかつた。誰が中心になつてゐたかといふと、もちろん棟梁のシテが中心であり、標準であつて、その他の役を担当するすべてを世阿弥は連人《つれにん》と呼んでゐるが、その連人たる者はすべて「一座棟梁の習道を本として、その教へのままに芸曲をなすべし」と規定されてゐた。即ち棟梁のシテの指導に従つて、その監督の下に演戯せねばならないのであつた。例へば、ワキに対しては、「棟梁の掟の程拍子を中心に案得して倶行同心の曲風をなすべし」と教へ、鼓方に対しては、「何をも一心のシテに任せ」「シテの心を受けて」事をなすべしと教へ、笛方に対しては、「シテの音声を聞き合せて調感をなし
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