゙理性の喪失を物語るペイジである。その時逆上したパリの暴徒はこのコンシエルジュリの門を破壊して闖入し、収容されていた囚人を悉くこの中庭で殺した。われわれの住んでる世界はサタンの世界ではないけれども、サタンはその中にもぐり込んでいて、機会のあるごとに活躍する。カーライルはそう批判した。人間を造る自然の中には、天国的な方面もあれば地獄的な方面もある。十八世紀末のフランス革命ほど地獄的活動の顕著であった実例は容易に見つからない。
三
最後に私たちはマリ・アントワネットの部屋を訪問した。小さい長方形の暗い部屋で、高い所に小窓が一つ付いている。今は隣りの部屋とつづいているが、その頃は壁で仕切られて、広さも今の半分ぐらいで、今よりも遥かに暗かったのだそうだ。壁も天井も石で、石は薄黒くなってい、床には煉瓦が網代形に敷いてある。天井から三本の鉄の鎖で吊された一つの鉄のランプは、ゲテ物として見ればしゃれた形ではあるけれども、フランスの王妃の姿を照らすにはあまりに粗末な荒物である。
マリ・アントワネットは一七九三年八月二日の未明に、市役所の馬車に乗せられて、タンプル塔の幽閉所からコンシエルジュリへ運ばれ、初めはほかの部屋に入れられたが、謂わゆるカーネイション陰謀の事件があって後、九月の初め頃、この部屋に移され、十月十六日の明け方までいた。ルイ十六世は、その年の一月二十一日に「庶人ルイ・カペ」となってコンコルド広場の露と消え、それ以来、マリ・アントワネットは「未亡人カペ」として待遇されていたが、それでも、彼女の此の地下牢で掛けていた肱掛椅子を見ると、赤紫のびろうど[#「びろうど」に傍点]を張った牢獄にはふさわしくないもので、それが今はその部屋から二つ目の礼拝堂に、彼女の用いていた小さい十字架やその他の遺品と共に、ガラス・ケイスの中に保存されてある。礼拝堂はマリ・アントワネット小博物館といったようなものになっている。
その礼拝堂兼小博物館になっている稍※[#二の字点、1−2−22]広い部屋はジロンダンの部屋と呼ばれ、前国民議会議長ヴェルニョー以下二十二名、嘗つては革命に狂奔した連中も、時非にして革命裁判に掛けられ、此処とリュクサンブールの牢獄に分けて収容された。その連中がぶち込まれた時は、婦人たちとはちがって喧喧囂囂の声が絶えなかったという。その部屋とマリ・アントワネットの部屋の間の小部屋には、革命の闘士ロベスピエールが処刑前に二十四時間入れられていたので有名である。……
しかし、マリ・アントワネットのことをもっと考えて見よう。
礼拝堂の壁に懸かってる画の中にマリ・アントワネットに関するものが二つある。一つは彼女がタンプル塔からコンシエルジュリに移される時子供たちと別れる場面、今一つはコンシエルジュリの地下牢で聖餐式を受けてる場面。いずれも感傷的な情景で、それをヴェルサイユ宮殿のガレリ・バスに陳列されてる花やかな画(マリ・アントワネットの肖像、彼女が王子・王女たちと並んだ肖像)と較べて見ると、何という哀れな対照だろう! ヴェルサイユの宮殿は二階正面のガラスの大広間から西へ廻って二つ目に王妃の部屋があって、グリザイユの天井とゴブランの壁掛《タペストリ》で装飾され、其処にも誇らしげに胸を張った彼女の肖像画を見た。それに続く王妃の小部屋《カビネ》が二つ三つ、思いきって小さい部屋ながら心にくい装飾を凝らし、書斎もあれば、浴室も付いていて、小さいサロンには其処にも美しい彼女の胸像があった。
彼女は美貌でもあったが、非常なおしゃれで、取りわけ衣裳道楽とカルタ遊びには目がなかった。尤も、母親マリア・テレザの目のヴィーンから光っていた間は、それでも遠慮がちであったが、マリア・テレザが死んで後は、世界に怖い者がなくなり、天下晴れて大っぴらの道楽者になった。しかし十四の時にオーストリアから輿入をして、華やかな贅沢なフランス宮廷の生活に慣れていたので、趣味だけはよく磨かれたと見え、ヴェルサイユ宮殿の後苑プティ・トリアノン(ルイ十五世がマダム・バリのために造った後苑)を殊に好み、そこにルイ十六世は彼女のためにイギリス風の設計をしてやり、日本の茶室を思わせるような小村を造り、珍らしい東洋の花木を植え、宮廷婦人たちがルッソーの『村の占卜者《うらないしゃ》』の影響を受けて貴族的牧歌趣味をひけらかしていた仲間に加わったりもしていたといわれる。私はそこを訪問した時、小さい流れには水車が廻っていて、池のほとりに菖蒲が咲いていたり、柴垣が繞らされてあったりする庭のたたずまいを眺めて、日本に帰ったような気がしたが、マリ・アントワネット[#「マリ・アントワネット」は底本では「アリ・アントワネット」]を中心とする宮廷婦人の一群がその中を動きまわっていた昔を想像して、贅沢の限りを尽したものだと感じた印象を忘れない。
それは一七八二年頃までの彼女の生活だったといわれるが、十年後には世界がひっくら返って、豪華なヴェルサイユ宮殿の女主人公は、見るもあわれな冷たいコンシエルジュリの石牢に押し込められていたのである。夫君は処刑され、子供たちとは引き裂かれ、石牢二箇月半の生活は、彼女にとってやるせないものであったに相違ないけれども、持って生れた尊大の気性と贅沢の習慣は、牢の中でも一日平均十五リブラの食料を消費していたと伝えられる。
その頃全パリは暴動化して、市民はすべて気ちがいの如く、悪魔の如くなっていたけれども、個人的には多少の例外もなくはなかった。彼女の付添役を命じられていた守衛《コンシエルジュ》のリシャールの如きは規則の許す限りの同情を彼女に寄せていた。ある日、彼女は新鮮な果物を欲しがった。リシャールはひそかに外へ出て、河岸で果物売の女を見つけ、一番良いメロンを買おうとした。果物売の女は守衛の擦りきれた服を見て、そんなにおえらい方の召し上り物ですかと皮肉に聞いた。そうだ。今までは一番えらい方だったが、今ではそうでもない。王妃さまの召し上り物だ。そう答えると、果物売の女はびっくりして、メロンを皆ぶちまけてしまい、お気の毒な方だ。金はいらない。これを皆上げて下さい。といった。
またコンシエルジュリの憲兵の一人は監視中いつも安煙草を吹かす癖があって、一晩中吹かしつづけ、換気のわるい石牢に煙がこもって、マリ・アントワネットが翌る朝青白い顔をしてるのを見ると、すまないことをしたと気づき、パイプを叩きこわしてそれっきり禁煙を誓った。
しかし、そんなことは彼女にとってどうでもよかった。彼女は石牢の中では王妃の尊厳を踏みにじられたことの憤激と子供たちを思ういたいたしい気持の間をいつもさまよっていた。たまに革命政府の許可を得て王妃に会見を求める者があると、付添のリシャールはいつも、どんなことを話してもよいが、お子さんのことだけには触れてはいけない。と忠告したそうだ。処刑される前に革命裁判の法廷に呼び出されて審問を受けた時、証人エベールという男は、革命裁判の意を迎えるためか、彼女にとって最も不利となるべき破廉恥事件を立証した。マリ・アントワネットは昂然として突っ立ったまま、それを無視した。陪審員の一人が、彼女の弁解しないことを指摘した。その時、彼女は最も軽蔑した態度で答えた。苟くも母たる者に対する斯くの如き侮辱に答えることは、天も共に拒むものである。自分のこの法廷に集まっているすべての母親にそれを訴える。此の矜持に充ちた答弁は、それを伝え聞いたロベスピエールをさえ感激せしめ、エベールの陋劣を憎ましめた。
彼女は若い時はたしかに聡明でなかった。ルイ十六世をも、フランスをも、不幸に導いたほどのまずいことを数数演じた。けれども私行については神の前にも恥ずべき点がなかったといわれる。母親ゆずりの政略的性行と世間を無視した思い上った行動が、彼女を誤らしめ、国民の反感を買わしめたのである。彼女の尊大は断頭台の上に立つまで失われなかったが、さすがに獄内の孤独は彼女をあわれな女の心に立ち戻らせたこともあったと見え、やるせない思いをピンの尖で紙に穴をあけて書き綴った辞句が、今も礼拝堂博物館のガラス・ケイスの中に保存されてある。
[#ここから2字下げ]
〔Je suis garde' a` vue〕
〔Je ne parle a` personne〕
〔Je me fie a` je viendrai ……〕
[#ここで字下げ終わり]
明けても暮れても見張られて居り、語る者とては一人もない。そうした悲しい昼と夜が五十三日続いた。そうして遂に彼女は呼び出された。
四
呼び出されたのは同じ構内の今の民事第一法廷で、当時はそこで革命裁判が開かれ、冷酷なフーキエ・タンヴィルがてきぱきと矢継早やに判決を下していた。マリ・アントワネットは十月十四日そこに「未亡人カペ」として召喚され、二日二夜に亘る辛辣な審問の前に、臆するところもなく立ちつづけ、簡明直截な答え方をしたり、或いは答えることを見合せたりした。その態度のひどく威厳を具えて立派であったことは多くの史家の等しく賞讃するところで、若かった頃の、国民に眉をひそめしめた頃の彼女とは別人の如くであった。その時彼女は三十八歳、革命の動乱が彼女の性格を鍛え上げ、天晴れの女丈夫に仕上げたのであった。
十月十六日未明、怪奇を極めた審問が終ると、フーキエ・タンヴィルは、何か言うことがあるかと聞いた。マリ・アントワネットは首を振った。陰惨な法廷の燭火は燃え尽して消えようとしていた。彼女の生命も消えようとしていた、彼女は予定の如く死刑を宣告された。彼女は無言のまま法廷を出た。
午前十一時、彼女は白布の囚人服のままで手を縛られて馬車に乗せられ、コンコルド広場へと運ばれた。パリの町町には太鼓が鳴り響き、街上には武装した三万の兵士が警戒していた。
彼女が十四歳の春ヴィーンからはるばるの旅路を辿ってパリに乗り込んだ時のきらびやかな楽しかった行列に引きかえて、これはまたなんという傷心な行列だろう! 馬車には一人の憲法司祭が付き添ってるきりで、前後は警固の騎馬に護られていた。けれども熱狂した群集は彼女を売国奴と思い込み、痛罵と叫喚を投げかけるのみだった。馬車がコンコルド広場に近づくと、サン・ロシュの群集の中から一人の女が現れて、マリ・アントワネットに唾を吐きかけた。唾は彼女の手をよごした。今まではさしもの喚声も聞こえぬように胸を張っていた彼女も、さすがに一瞬間色をなして、此の穢らわしい暴徒が! と叫んで、その方に背中を向けた。
やがて広場に着き、最後の祈がすむと、ギヨティーヌの上に導かれた。その足どりも甚だ確かなもので従容自若としていたとはいわれる。十二時十五分、ギヨティーヌの大きな斧刀は鋭く落ちて、美しい首を美しい身体から断ち放した。ルイ十六世の場合と同じく、ヴィーヴ・ラ・レピュブリクの喚声が広場の空気を震わせた。
革命裁判の狂暴とギヨティーヌの運転はその後も止む時なくつづいた。ジロンド党員が殺され、貴婦人たちが殺された。パリはまだしばらく血に飽きることを知らなかった。その間にもサンキュロトの共和政府は混乱を重ねて殆んど収容しきれない状態に立ち至った。けれどもナポレオンの打ち出した砲弾が遂にすべてを解決した。
マリ・アントワネットについての最後のあわれは、その屍体と首が近くのマドレーヌの墓地に葬られた時、霊柩を提供する者がなかったので、寺男は自分の財布から七フランを払って「未亡人カペ」のために形ばかりの葬りをしたということが、その寺の帳簿に書き遺されてある。
底本:「世界紀行文学全集 第二巻 フランス編2[#「2」はローマ数字、1−13−22]」修道社
1959(昭和34)年2月20日発行
底本の親本:「西洋見學」日本評論社
1941(昭和16)年9月10日発行
入力:門田裕志
校正:染川隆俊
2006年7月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
野上 豊一郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング