Bいやに薄暗い長い通路を通った。ルー・ド・パリ(パリ通《どおり》)というのだそうだ。誰が付けた名前だか知らないが、しゃれた付け方をしたものだ。一七九二ー三年の囚人たちには、此処はパリの外の世界だっただろうから、花やかなパリがなつかしまれたものだろう。その突きあたりに、狭い石畳の廊下があって、その先に地下牢の鉄の格子の扉がある。しかし、今は締め切って其処からは通さない。革命の時の囚人は大がいその格子の扉からぶち込まれたのだというが、われわれはフランスの貴族でもなければ、ジロンダンでもないから、通さないのだろう。
 それから右へ廻ったのだったか左へ廻ったのだったか覚えないが、クール・デ・ファム(女の中庭)というのに出た。地下牢の中での名所の一つで、四辺の建物に囲まれた谷底のような中庭になって居り、片隅に噴水があり、洗盤がある。革命裁判の犠牲となってぶち込まれた貴婦人たちは此の小さい中庭を散歩することを許されていたが、中には洗盤で洗濯をした者もあったという。その婦人たちの中には、王妹マダム・エリザベト、ノアイユ公爵夫人、マダム・ローラン、セシル・ルノー、マダム・ドュ・バリ、等、等、いずれも昨日まではテュイルリの花の前に、ヴェルサイユの月の下に金髪を揺るがし、綾羅の裳裾を翻えして踊り戯れていた美人たちであったが、狂暴なフーキエ・タンヴィルの判決を言い渡されて、次々にコンコルド広場のギヨティーヌへと運ばれた。ギヨティーヌは気ちがいのように活動して一分に一つの割合でさまざまの首を断ち落した。宮廷婦人たちがその美しい姿態をクール・ド・ファムの噴水のほとりに見せていたのもまことに日蔭待つ間の牽牛花の運命に過ぎなかった。
 婦人たちが次次に殺されたのは、バスティーユの牢獄に革命の火の手が挙って五年目、一七九三年の夏から秋へかけてのことであったが、その前年の秋にはこの中庭で今一つの恐るべき事件が起った。「九月の虐殺」と世に言われる事件で、フランス国内は鼎の沸くが如くに乱れていた時、外からドイツ軍・オーストリア軍が迫って来たのは、貴族・僧侶が誘導したのだという宜伝に煽られて、地方でもパリでも到る所に虐殺が行われた。虐殺された者の数は一万二千人とも報告され、また千八十九人であったとも報告されている。昔のバルテルミの虐殺、アルマニャクの虐殺、シチリアの虐殺と共に、世界文化史上で最も恥ずべき人
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