十一時、彼女は白布の囚人服のままで手を縛られて馬車に乗せられ、コンコルド広場へと運ばれた。パリの町町には太鼓が鳴り響き、街上には武装した三万の兵士が警戒していた。
彼女が十四歳の春ヴィーンからはるばるの旅路を辿ってパリに乗り込んだ時のきらびやかな楽しかった行列に引きかえて、これはまたなんという傷心な行列だろう! 馬車には一人の憲法司祭が付き添ってるきりで、前後は警固の騎馬に護られていた。けれども熱狂した群集は彼女を売国奴と思い込み、痛罵と叫喚を投げかけるのみだった。馬車がコンコルド広場に近づくと、サン・ロシュの群集の中から一人の女が現れて、マリ・アントワネットに唾を吐きかけた。唾は彼女の手をよごした。今まではさしもの喚声も聞こえぬように胸を張っていた彼女も、さすがに一瞬間色をなして、此の穢らわしい暴徒が! と叫んで、その方に背中を向けた。
やがて広場に着き、最後の祈がすむと、ギヨティーヌの上に導かれた。その足どりも甚だ確かなもので従容自若としていたとはいわれる。十二時十五分、ギヨティーヌの大きな斧刀は鋭く落ちて、美しい首を美しい身体から断ち放した。ルイ十六世の場合と同じく、ヴィーヴ・ラ・レピュブリクの喚声が広場の空気を震わせた。
革命裁判の狂暴とギヨティーヌの運転はその後も止む時なくつづいた。ジロンド党員が殺され、貴婦人たちが殺された。パリはまだしばらく血に飽きることを知らなかった。その間にもサンキュロトの共和政府は混乱を重ねて殆んど収容しきれない状態に立ち至った。けれどもナポレオンの打ち出した砲弾が遂にすべてを解決した。
マリ・アントワネットについての最後のあわれは、その屍体と首が近くのマドレーヌの墓地に葬られた時、霊柩を提供する者がなかったので、寺男は自分の財布から七フランを払って「未亡人カペ」のために形ばかりの葬りをしたということが、その寺の帳簿に書き遺されてある。
底本:「世界紀行文学全集 第二巻 フランス編2[#「2」はローマ数字、1−13−22]」修道社
1959(昭和34)年2月20日発行
底本の親本:「西洋見學」日本評論社
1941(昭和16)年9月10日発行
入力:門田裕志
校正:染川隆俊
2006年7月26日作成
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