あったものだろうが、今はカトリクの様式になってるのは、八世紀頃からしばらく此の宮殿が修道院に使用されていたためだろう。バジリカ(法廷)は皇帝が護民官を半円形に列ばせて、訴訟当事者に判決を与えた状態が実感されるように遺っている。しかし、装飾を奪われてることはいうまでもない。礼拝堂とバジリカの下にはそれぞれ地下室があるけれども、なぜだか公開されてない。バジリカの下の部屋にはアウグストゥス時代のすばらしい壁画が残ってるということだが、見せないとなると一層見たくなる。
南側の中央は大食堂で、色さまざまの大理石や※[#「王+分」、第3水準1−87−86]岩の敷石の破片があったということだが、今は見られない。大食堂の両側はニムフェウムと呼ばれる浴室で、楕円形の大きな噴水盤が西側の部屋だけに残っている。その部屋には美しいモザイクの床も割合によく保存されている。珍らしく感じたのは、その部屋の外側に二千年前の汲み上げポンプの軸棒[#「軸棒」は底本では「軸捧」]が残ってることで、深さ約三六米あるそうだが、周りに鉄柵を繞らして手を触れさせないように大事に防護してあった。
なおその先に別棟になって二つの部屋があり、アカデミアとビブリオテカと名が付いているけれども、もちろん今はがらんどうである。
以上は公式の宮殿であるが、皇帝の私室はどこにあるのかと聞くと、中庭の下にあると案内人は答えた。しかし、それもまだ公開されてなかった。
此の宮殿のある地面は東隣りの広大な空地と共に初めはアウグストゥス帝の大宮殿を載せていたので、その区域(パラティウム)は今でもドムス・アウグスティアナと呼ばれている。その空地の一部分に壊れたまま立ってる近代式の建物の純英国式なのがおかしいと思ったら、百五十年ほど以前にサー・チャールズ・ミルズという英国人が建てたのだということだ。その南側にカザ・ロムリ(ロムルスの家)という小さな円い編み屋根の石造の小屋があるのは、太古からその名で呼ばれて来た建物が山の西の端にあったのをジァコモ・ボニ(発掘家)が復原したのだそうな。
私たちはドムス・アウグスティアナから東南の方へ広場を案内人につれられて行ったが、突然深い谷底を見下す崖の端に出て驚いた。長さ二百米以上はたしかにあると思われる長方形のグラウンドが遥かの谷底に横たわっているのだから。現にスタディウムと呼ばれてるように、競技場だったのかと思ったら、昔は花園で、形も楕円形だったのが、後に今のような形に改め、一時競馬場に使っていたので、ヒッポドロムスとも呼ばれていたという。下りて見ようかといわれたけれど、疲れてもいたので、やめにした。
四
ドムス・リヴェ(リヴィアの家)のことを書き落してはならない。リヴィアはアウグストゥス帝の皇妃リヴィア・アウグスタで、彼女はアウグストゥスの子供は産まなかったが、皇帝と合意の離婚をし、皇帝の歿後此の家に移り住んでいた。此の家はもとティベリウス(ティベリウス帝の父)の家で、彼女はティベリウスと結婚して二人の子供を産んだ。その一人がアウグストゥスの後を継いで二代目の皇帝となったティベリウスである。彼女はアウグストゥス在世の時は飛ぶ鳥も落すローマ皇帝の皇妃として隠然たる勢力を持っていたことは、アウグストゥスに追放された詩人オヴィディウスが危く財産をも没収される筈であったのを、詩人の妻がリヴィアの袖にすがり、リヴィアの一言で助かったという一事によってもわかる。アウグストゥス歿後は新帝の生母ではあり、その権勢のいかに盛んであったかは容易に想像される。その上、彼女は莫大の富を所有していたことは、後に六代目の皇帝となったガルバが年少気鋭の頃、血縁の関係から彼女の遺産を相続し得たにもかかわらず、敢然としてそれを拒絶したので、ローマ市民に英雄的志操を持つとして拍手されたによっても察せられる。
そういった権勢と富を一身に集めていたリヴィアの住居が見られるということは、史的興味からいっても、また二千年前のローマ上流の生活状態を実感して見ようとする好奇心からいっても、旅行者にとっては此の上もない見ものでなければならない。
家の位置はティベリウスの宮殿の南で、ドミティアヌスの宮殿(ドムス・アウグスティナ)からいうと西に当る窪地で、ネロの地下道に沿って歩いて行くと、道路から石段を六七段下りなければならないように今はなっている。
下りて見ると、小さい柱廊があり、その先は美しいモザイクの敷石で中庭になって居り、いかにも小じんまりして、高貴な人の邸宅とは思えないほどの単純な構造がまず意外だった。事実、ローマ人とても久しく此の家の存在を忘れていたくらいで、一八六八年の発掘の際、或る部屋の片隅から水道の鉛管を掘り出したら、それに名前が彫ってあったので初めてリヴィアの家らしいということになり、研究の結果そうだと認定されたもので、もしその鉛管が目っからなかったら、二千年前の単なる一市民の家として看過されたかも知れなかったのである。鉛管は今もその部屋に保管してあるが、案内人の老人はその上の文字を得意そうに私たちに読んで聞かせた。
部屋は一階に小さいのが四つと、外に物置かとも思われるのが少し離れて一つと、二階にも幾つかあるが、二階には案内されなかったからわからない。何しろ長く土中していたのと、すべての装飾が失われているので、興味は主として割合によく保存されてる壁画の上に注がれるようになっている。
食堂のほかに同じくらいな小部屋が三つ並んでいるが、中央の部屋(応接室だと推定されている)の壁には、窓を描いて、窓から神話の場面が眺められるような趣向が、これは昔喜ばれたものと見え、ポンペイでも同じような種類のフレスコを見た。此処のはアルグスがイオの番をしてると、メルクリウスがイオを助けようとして現れてる場面を見せたものである。鉛管の置かれてあるのはその部屋だった。
その右隣りの部屋の壁には花と果物の花環を幾つも描いて、花環から仮面がぶらさがっていた。左隣りの部屋の壁は茶色の羽目板で張りつめられ、上部の白壁をば赤や緑で縁どり、翼の生えた人物が飛んでるところが描いてあった。クリスト教の天使である筈はないから、クピドーかと思ったが、クピドーが幾人も飛んでるわけもなし、結局何を描いたものだかわからなかった。尤も、二千年前といえども、人間に翼を生やした場合を想像することぐらいは当然あり得たと思われるが。
食堂は上記の右の小部屋から鈎の手に曲った位置にあって、二つの壁画がある。一つは珍らしく風景画で、殿堂のようなものも見え、今一つは果物を盛ったガラスの鉢が二つ描いてあった。
総括的に感じたことは、形や線や色の調子がポンペイの壁画と同一系統であることで、赤々した色彩もポンペイのほど毒々しくなく、緑と黄が主調をなしていることだった。エジプトで三千年前四千年前の壁画のすばらしいのを数々見たから、それより美的に低下してる此の壁画にはそれほど驚かなかったが、それでも二千年前にこの程度の写実的技法を知っていた西洋に、その後同じ主張のすぐれた物が出たのは当然といわなければならぬ。
物置のような今一つの部屋には細長い尻のとんがった壺が幾つも壁に立てかけてあって、それを見る度に私はいつもどうしてあんな安定のないものをこさえたのかと思い、いまだに気になっている。
五
リヴィアの家から程遠くない所にロムルスの墓と称するものがある。大きな石を楕円形に円筒状に畳み上げたもので、ちょっと見ると空井戸かと思われるような形で、そういわれなければ墓とは気づかない。ローマ創始者の骨を埋めてある所として昔から神聖視されて来たということだが、ただ小高い岩山の上に横たわっているきりで、別に何等の礼拝の設備もしてない。
其処から西南へ歩を進めてジェルマルスの区域の崖端に寄った所に、灰華石のアラ(祭壇)と称する壇がある。紀元前一〇〇年頃に改築したのだそうで、SEI DEO SEI DEIVAE SACRUM(無名の神に捧ぐ)と彫ってあるから、その頃すでに名を忘られていた太古の神の祭壇でもあろうか。その辺からは、すぐ下に昔のマクシムス競技場の跡(今のヴィア・デイ・チェルキ)を隔ててアヴェンティーノの山からテベレの下流を眺めるようになって、形勝の地である。
その崖つづきを東の方へ行くと、ドムス・アウグスティナの下に当る中腹にペダゴギウム(学校)と呼ばれる建物の遺物がある。帝政時代に幼年子弟の訓育所に当てられたが、或る時期には牢屋にも使っていた。今では壁に彫り散らした楽書によって有名になっている。いろんな種類の楽書があるが、おもなものは壁を切り取ってテルメ博物館に陳列してある。私の記憶してる最も代表的なものは、豚が十字架の上に磔にされてる戯画で、下に立ってる男が十字架の上の豚に何か言っている。それが果してクリストを揶揄したものだかどうだかわからない(何となればその頃は磔にされる者は非常に多かったから)が、そう取った方が此の戯画の価値が大きくなるだろう。画は釘の先か尖った石かで彫りつけたもので、幼稚な線だが、なかなかおもしろくできている。
一体にパラティーノは形勝の丘陵であり、ローマ発祥の地であったから、殊にパラティウム区域は帝政以前から貴顕大官の住居地となって、クラスス、キケロなども此処に大きな邸宅を構えていた。アウグストゥスの宮殿の如きも以前はホルテンシウスの邸宅だったのを、彼が皇帝になる直前に買い入れて宮殿を築造したのだといわれている。その後、ティベリウス、カリグラ、ドミティアヌス、セプティムス・セヴェルス等の皇帝が宮殿を造営したり改修したりしたことは、すでに述べた如くであるが、ローマを焼いて喜んだネロには、こんな窮屈な山の広さは気に入らなかったと見え、彼は飛び放れてエスクィリーノ山の方へかけて宏壮な「黄金御殿」を建てた。
私たちはパラティーノには長男をつれて二度見物に行った。初めは一九三八年の十一月で、その時長男はまだローマ大学の学生だった。その次は翌年の五月で、その時は彼は卒業してローマ大学の講師になっていた。初めの時は廃墟の間にアカントゥスが大きな濃緑を拡げていた。二度目の時はローマでは到る所で見られる赤い芥子の花が風に吹かれてひらひらしていた。その他多くの花を見たが、銭葵《ぜにあおい》の花が日本のと同じように咲いてるのを珍らしく見た。アカントゥスはポンペイでも見たが、特にパラティーノでそれを強く印象されたのは、コリントスの彫刻家カリマコスの逸話を思い出したからだった。カリマコスはローマに来ていた。或る日、パラティーノの町(ローマ・クァドラタ)を歩いてると、若い娘の墓の上にアカントゥスの葉を盛った籠が供えてあるのを見て、その美しさに目を留め、熱心に写生して図案化し、それで初めて円柱の冠頭を装飾したのがコリントス式の起りだという。或いは単なる伝説かも知れないが、参考のため書き留めて置く。
底本:「世界紀行文学全集 第六巻 イタリア、スイス編」修道社
1959(昭和34)年10月20日発行
底本の親本:「西洋見學」日本評論社
1941(昭和16)年9月10日発行
入力:門田裕志
校正:染川隆俊
2006年7月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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