m#「きれ」に傍点]が掛けてあるのも、女の寝室らしいなまめかしさが漂っていた。
ハサウェイの家は重代の自作農で、一種の郷士であった。アンは六人の子供(女三人と男三人)の一番上だった。シェイクスピアが彼女に求婚した時は、父のリチャードはすでに死んで、母のジョンが農事を宰領していた。もう春も闌けて、田園には夏らしい青葉が濃くなりかけていた頃、肉屋の息子と農家の娘の恋は芽を吹いた。訪問者は誰でもその家の窓際に金髪のアンが「朝露で洗われた薔薇《ばら》のようにかがやかしい」姿で、野を横ぎって来るウィリアムを待ちながら立ってるところを想像しないでは去らないだろう。二人の恋の場面は野の上でも牧場の上でも見られたであろう。肉屋の伜であった詩人は「恋は良心が何であるかを知るにはあまりに若い」と歌った。また「おお、物を教える甘い恋よ、お前が罪を犯したのなら、お前の誘惑したことわけを教えてくれ」と歌った。しかし、その頃彼は何を恋に教えられたか知らないが、記録の証明するところに拠ると、「恋の強い情熱」の結果は、その年(一五八二年)の十一月二十八日にショッタリの二人の百姓男を、ウィリアム・シェイクスピアとアン・ハサウェイの結婚許可を得るために、アンの母親の代人としてウォースターの監督牧師に願い出させた。一つは身分の上に於いて花聟の家の方が低かったためか、シェイクスピアの父の方は手続の上では無視されている。翌年五月初めの子供(娘)が生れ、更に二年後に双生児(息子と娘)が生れた。そうしてその年、彼は妻と子供と親と家を後にしてロンドンへ出た。
私たちはついでにシェイクスピアの母方の親戚なる郷士アーデンの屋敷がウィルムコートに在るというので、それをも見て行こうとして、田舎道を乗りまわしたけれども、捜し出せなかったので、そのままウォリクの古城をさして北東へ進んだ。
[#地から1字上げ](昭和十四年)
底本:「世界紀行文学全集 第三巻 イギリス編」修道社
1959(昭和34)年7月20日発行
底本の親本:「西洋見學」日本評論社
1941(昭和16)年9月10日発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2007年8月9日作成
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