ある人の屋敷を六十ポンドで買い取っていた。それを修繕して大屋敷《グレイトハウス》という名前を新屋敷《ニュープレイス》と改め、其処へ引っ越して一六一六年に五十二歳で死ぬまで六年間住まっていた。その外にも、町の郊外に百七エイカ(約百四十三町歩)の土地を買い込み、大詩人はまた同時に大地主でもあった。「おわりよきものはすべてよし。」
 私たちは新屋敷《ニュープレイス》を訪問したが、今は美しい青芝の庭園となって、その間に桜草やダフォディルが咲いているだけで、シェイクスピアが晩年を過ごした家というのは僅かに残ってる礎石に依って想像するほかはない。その家は十五世紀にクロプトンの建てたもので、それをシェイクスピアの好みで模様替えしたのだから、もし今日まで保存されていたら非常に興味あるものに相違ない。本宅の外に、納屋二棟、庭園二つ、果樹園二つを包容したといわれるだけあって、大きな屋敷である。その庭園にはシェイクスピアが植えた桑の木があったが、十八世紀の中頃、当時その屋敷はガストレルという牧師のものになっていて、シェイクスピアの名声が世間に漸く高まった頃で、遠近から見物人が押しかけて来てうるさいというので、癇癪持ちの牧師はその木を伐り倒してしまった。「おれの屋敷に生えた木が一本ある。それを伐り倒して使いたいのだ。近いうちに倒さねばならぬ。」(Timon of Athens)。そんなことを書いたシェイクスピアは百五十年以前に癇癪坊主にとんでもないことを教えたようなものだった。ジョンソン博士はそれを憤慨して、ゴート人の蛮行《ヴァンダリズム》だと非難したが、そのくせ、婦人尊敬の癖を持っていた博士はリッチフィールドで牧師夫人と会食した時にはその共犯者に対して一言も非難の言葉を浴びせなかった。ウォシントン・アーヴィングがストラトフォードで逢った寺男は、もと大工をしていた男で、その仲間に例の木を伐り倒したのを自慢にしてる老人があった。スコットはその材木で造った箱を寺男に貰って喜んだ。今ではその桑の木の若芽を接木したと伝えられる老樹は庭の隅に枝をひろげて日蔭を作っている。
 庭に接して立つ一つの建物は新屋敷博物館《ニュープレイスミュジーアム》と呼ばれ、ロンドンから蒐めて来たシェイクスピアの彫像が陳列されてあるが、もとはナシュの家と呼ばれ、シェイクスピアの孫娘のつれあいトマス・ナシュが住まっていた家で
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